* * *

 文芸部的な活動に勤しむようになって早くも五日目を迎えていた。
 ムツが指定した当初の締め切りはもう二日後に迫っているが、相変わらず俺は一文字も恋愛小説なるものを書けずにいる。俺の反対を押し切ってアブナイ学園ラブコメの執筆を続けているムツは、休憩の度に早く書けー早く書けーと俺にプレッシャーをかけてくるが、んなもんかけられたって書けないものは書けないし、この頃になると俺もいい加減諦めの念を抱き始めていた。もう書けないなら書けないでもいいや、原稿落ちたって知るかクソ喰らえ、的なアレである。
 このまま締め切りが二日後のままで変わらなかったら俺は実際に原稿を落としていたかも知れないが、そうならなかったのはムツがこの日になって最終締め切りを更に設けたからである。どうやら当初の締め切りまでには自分も書き上げられなさそうだと判断したからのようだが――最終締め切りは当初の締め切りの更に二日後に設定され、その日までに原稿が出ない場合は問答無用でムツ考案の罰ゲームを受けさせられることになってしまい、俺はやっぱり恋愛小説とやらを書かねばならなくなった。
 そうなると、ムツが圧力をかけてこなくても自分で勝手にプレッシャーを感じてしまう。プレッシャーがかかればますます俺は書く気をなくし、……何だろうね、このテスト前にも似た抑圧感は。
 そんな感じの俺は、その日もスクリーンセーバーを流し続けている自分用のパソコンを放置して、メグにちょっかいを出したりカナを冷やかしたり、図書館に行ってラノベを読み漁ったりしていた。自分で言うのもどうかと思うけど、俺って凄く駄目人間だな。典型的な。

「あー……ねみ、」
 午前中をそうやってメグやカナに迷惑をかけつつ読書をして過ごした俺は、昼に近所のコンビニへ飯の買い出しに行き――休み中だから学校の購買は閉まっている――帰ってきた足で中庭に赴いて大して美味くないでもそこそこの味のコンビニ製握り飯を食った後、そう独り言を言って目を擦りつつ図書館に戻ってきた。
 気分転換も兼ねて学校を出たはいいが、そうして気分をちょっと転換しただけで原稿がすらすら書けるようになるなら俺もここまで苦戦していない。どうやら午後も読書をして過ごすことになりそうだと思いながら図書館に入ると、閲覧机のところでアキが居眠りをしていた。
「……」
 カナはどこかに昼飯でも食いに行っているのか、館内にいるのはアキだけである。
 起こしてしまわないように静かにドアを閉めたものの、果たして正しい行動だったのだろうか。机の上に例の詩の書き方の本やらルーズリーフの束やらが広がっているところを見ると、アキが眠ってしまったのは執筆作業の真っ最中らしく、むしろ起こしてやるべきだったのかも知れない。
 ……だけどまぁ、春も間近の光に照らされた窓際の閲覧机にぺったりと頬をつけて幸せそうな寝顔になっているアキを見てしまったら、改めて起こす気にもならなかった。こういうのを見ると、幼馴染のカナがやたらと気にかけて甘やかすのもわからなくないな、と思ってしまう。
 俺は派手な足音を立てないように館内を歩いて、文庫本のコーナーから適当に未読の一冊を選び出すと、午後も読書に励もうと閲覧机の方に足を進めた。
「……ん?」
 万が一大きな音を立てたりしてアキを起こすことがないように、離れたところの閲覧机に腰を落ち着けるつもりだったのだが、アキの傍を通りかかった際に気が変わった。俺はアキの座っている丁度正面の席に持ってきた文庫本を置くと、机の上に乗っているあるものを空いた手でそっと持ち上げる。
 あるもの、なんて敢えてぼかす必要もないよな。そう、それはアキの書いた詩の原稿だった。
 赤ペンで推敲をした痕跡のあるルーズリーフを手にした俺は、丸っきり興味本位でアキ作のラブポエムを黙読したのだが、その内容は……

――――――

『シンパシー』
 by 雨宮天地あまみやそらち

 俺と君との間にある
 どうしても埋められない僅かな差

 君は必ず俺の一歩先を行き
 俺はただついていくことしかできず
 隣に立つことも許されないで
 後ろから君を追いかけるだけ

 たまに振り返って微笑んでくれる君の優しさに
 涙が出そうなほど嬉しいと思いながら
 一方で、影のように苦しみは伸びる

 わざわざ振り向かなきゃ
 君には俺が見えないんだよね
 俺なんかを振り向かずに済めば
 その方が君にとってはずっと楽なんだ

 例えば、
 俺を見る君の瞳が柔らかな微笑に染まるのだとしても
 その目に映っているのは
 背の低い地味な男の姿なのだと知っている
 そのダークブラウンの瞳に
 俺が本当の意味で映ることはないことを、知っている

 少しでも君の傍に行きたくて背伸びをすれば
「そのままの方が好きだよ」なんて
 酷く勝手なことを言って邪魔をするんだ

 俺は君についていきたい訳じゃないのに
 俺が立ちたいのは、
 君の後ろじゃなくて隣なのに

 それでも
「好き」と言われてしまえば
 一歩を踏み出せなくなってしまう

 他愛もない一言と昔の約束に縛られる俺を、
 やっぱり君は笑うのだろうか。

 俺と君との間にある
 永遠に埋められない無限の差

 唯一知っていたのは、同情だ、ということ。

――――――

 こ……これは……。
「……、っと?」
 クセのある角ばったアキの字で書かれた詩を読んで呆然としていたら、正面からにゅっと手が伸びてきてばっとその紙を奪われてしまった。突然のことに何かと思って手が伸びてきた方を見れば、そこではいつの間に目覚めたのか、アキが顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。
 な、何だ、そのリアクションは。



な、何だ、そのリアクションは。


「……み」
「み?」
「――……見るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
 いや、今更そんな叫ばれても、もう見ちまったよ。
「……。別に見てもいいだろ。どうせ最後には部誌に載せることになるんだし、そうしたらどの道俺の目に触れることになるんだからさ」
「あああああっ、とにかく駄目っ! 今は絶対駄目! 無理!」
 アキは勝手に一人でぷりぷり怒ると、顔を真っ赤にしたままくしゃくしゃと俺から奪い取った原稿を丸め、カウンターの傍に設置してあるごみ箱に捨てに行ってしまった。……え、つーか捨てるのかよ? もったいない。
「もったいなくないっ。アレは失敗作っ」
「……俺はいいと思ったけどな」
「良くないっ! 失敗作っ!」
 ちなみにそう言ってアキが新たな没原稿を押し込んだごみ箱は、元の容量が小さいこともあってかとっくに満杯になってしまっている。そのほとんどが今捨てられたものと同じような、丸められたルーズリーフであり……ってことはアレ、全部アキの没原稿か? 何作没にしてるんだよ。
「……あんなん見られたら俺、恥ずかしくて死んじゃうよ……」
 ごみ箱のところから戻ってきたアキは、机の上に広げられていたルーズリーフやら本やらを一纏めにすると、それの上に覆いかぶさるようにして突っ伏してしまった。耳のところまで赤い。よほど恥ずかしかったと見える。
「……そんなに恥ずかしいなら、そうじゃないやつを書けばいいだろ」
「無理……ああいうの以外、書けない……」
 ……ああいうの以外書けないのか? それって逆に才能だと思うんだが。
 予想していた以上に遥かに高クオリティだったアキのポエムを思い出しつつ、俺は首を捻った。突っ伏したまま身じろぎ一つしないで「はうぅ」なんて言っているアキにばれないようにごみ箱のところまで行き、音を立てないように中を漁る。何枚か取り出して広げてみた。
 ……どれを読んでも色恋に乱れる情熱的な詩ばかりだ。能天気が服を着て歩いているような性格をしているアキの意外な一面を知って、俺の方が恥ずかしい。
「……いいと思うんだけどな。リアリティあるし」
「ってユキ、何漁ってんだよ! やめろって!」
 しまった、気づかれた。
「やだっ、返せ、つか捨てろ! 捨ててってば! やめろよっ!」
 せめて今手にしている数作だけはムツのところに持っていってやろうと、俺はくしゃくしゃの原稿を持ち上げてアキに奪われないようにするが、すっ飛んできたアキはぴょんぴょんと俺の周りを飛び跳ねてそれを取り返そうとしてくる。しまいには俺の背後にしがみつき、逃げられないように関節を固めてから手を伸ばしてくる始末だ。こら、やめろって。
「あっ、この」
「ったく、油断も隙もないんだからっ……」
 結局最後には奪い返されてしまった。残念だ。多分ごみ箱の中に残っている他の没原稿も、アキはこれから学校のごみ集積場に持っていってしまうだろう。
 俺は真っ赤な顔でぶつくさ言っているアキをまじまじと見つめた。もう一度没原稿をくしゃくしゃに丸めながら、アキはそんな俺の視線に気がついたらしく、顔を上げて「何だよ」と不機嫌そうに言う。
「……どーせ似合わないとか思ってんだろっ」
「いや、思ってないって。……まぁ、正直意外だとは思ったけど」
 思ったところを正直に告げると、アキはそのつもりがなかったのかますます赤くなってしまった。けれどいつもみたいにぎゃんぎゃん反論してきたりはせず、そのまま縮こまってもじもじしてやがる。こういうアキの挙動は初めて見るな。
「ていうか……お前、恋とかしたことあるのか?」
「へっ?」
 俺の質問が意外だったらしく、尋ねるとアキは間の抜けた声を出した。しばらく考えた後でようやく俺に何と尋ねられたのか理解したようで、再び小さくなると、
「そりゃ、まぁ……俺だってもう十三年生きてますから。恋の一回や二回くらいはしたことあるよ……」
「そうなのか?」
「あ、嘘。に、二回はないけどっ。一回だけだけど」
 何故か焦ったようにわたわたと手を振るアキ。
「でも、それとこの詩とは無関係だから! 全っ然、何の関係もないから! ナッシングだから!」
 ……。
 そこまで必死になって否定すると、逆に関係があるって言っているように見えることに、果たしてアキは気がついているのかな。
「つーかさっ、」
 いきなりツンケンした口調になってアキが反抗してきた。
「ユキはそういうの、ない訳? その……ひ、人を好きになったりとかさぁ」
「いや。ない」
 自分でも驚くくらい冷たい声が出た。びくりとアキが身体を震わせたのがわかる。
 それ以上アキをビビらせないようにと気を遣いながら、俺は続きの言葉を口にした。
「……さっき、もう十三年生きてるからとか、アキは言ったけど。俺はお前と同い年で、十三年生きてるけど――誰か人を好きになったことは、今まで一度もない」
 恋だとか。
 愛だとか。
 そういう感情とは一切無縁で、ここまで生きてきた。
「傍にいる人間の内、特定の誰かのことが異常なまでに気になるようになるだとか。知らず知らずの内に目で追うだとか、そいつを独り占めしたいって思うだとか。……そんなことってなったこともない。そいつと付き合いたいだとか、抱き締めたいだとか、キスしたいとか、エロいことしたいとか、考えたこともねぇよ」
 付き合うだけなら、一回だけミキと知り合った当初に間違いのように交際紛いをしたことはあったけれど――あれだって、別に全然本気ではなかったし、ミキの手すら握らなかったことがそのいい証明だ。
 俺は誰のことも好きになったことがない。
 否、
「っていうか。――俺はきっと、誰のことも、本気で好きになったことがないんだと思う」
「……」
「こいつはいい奴だなとか、この子は可愛い子だなとか。そういうのは思うけど、それだけしか思わない。ドキドキなんてしないし、心臓が張り裂けそうなほど切なくなったりもしない。一目惚れなんかしたことないし、するとも思わない。運命じゃないし、ビビッとこない。……誰か特定の一人に執着したことなんて、一度もない」
「……ユキ?」
「だからって訳じゃないけど。……合宿の時とかに、夜、みんなで恋バナとかしたりするけどさ。何も話すことがないんだよ、俺って。だって誰かを好きになったことなんてないし、当然誰も好きにならないから誰かに好かれたこともないし。恋愛したことないから、恋愛観なんて持ってる訳がないし」
「……」
「だから……そう、なんだよな。俺は話したくないんじゃなくて――話せないんだ」
 だって人を好きになったことがないから。
「……」
 アキは面食らったような顔をして、穴が開きそうなくらい俺のことをじっと見つめている。そりゃ、いきなりこんなことマジな顔して話したらそういう反応されてもしょうがないか。
「……何かごめん。よくわかんないこと言ったよな、俺」
 ずっと続いていた沈黙に堪えられず、最終的に俺は頭を掻きながらアキにそう謝る。
 謝られた方のアキは、それからも少しの間、驚いた顔で目を皿のようにしていたが――やがて、にへ、と笑った。
「いや、全然。……あー、まぁ確かによくわかんなかったけど、」
 アキはここで少し言葉を選ぶように考え込んだ。
「でも、何か。あー、そうなんだ、って感じだったよ。……こういう言い方はちょっと変かも知れないけど、何かちょっと嬉しい」
 嬉しい?
「うん。ほら、ユキってさ。自分でも言ってたけど、こういう恋愛に関する話とか全然俺達にしないじゃん? うーん……恋愛の話に限らず、さ。こういうぶっちゃけトークみたいなの、あんまりしない奴じゃんか」
「……そうかな」
 確かそれは、メグにも言われたことだ。
 ――ユキには何でも話して欲しいと思ってるし、信頼して欲しいって思ってるけど、でも、ユキはそうはしない。
 ――絶対に言えないと思ったことについては頑なに口を閉ざし続けるし、つかず離れず距離を置いて僕達に接する。
 ――それがね、勝手なことを言っているとは思うんだけど、ちょっと寂しいなって、思う時があるんだよ。
「だから、何かいきなりこんなこと話されて、確かにびっくりしたし、今何て言ったらいいかわかんないしで俺も戸惑ってんだけどさ。……でも、何か、俺がユキにとってそういう話ができる相手になれたんだーって思うと、何つーの? 悪い気は全然しないっつーかさ。そんな感じ」
 まださっきの名残で顔を赤らめたまま、アキはその言葉の通りのまんざらでもなさそうな表情になった。それから照れくさそうにへへ、と笑って、手にしていた紙のボールを更にくしゃくしゃにする。
「でも、ちょっとここで話変わるけどさ。……今のユキの話聞いたら、何か俺、すげー納得しちゃったかも。ユキが恋愛小説なんか書けないって言ってるの」
「……そうか?」
「うん。いや、だって普通そうだよな。恋したことないのに、恋愛小説なんか書けないだろ、やっぱ」
 丸めた原稿を再びごみ箱にシュートすると、アキはそのごみ箱を持ち上げた。やはり捨てに行くつもりなんだろうか。
「俺だって、その……恋した経験なけりゃ、こんな詩は書けなかったんだろうなーって思うし。恋愛したことない奴には、やっぱ恋愛のことはわかんないって思うよ、俺は」
 ごみ箱を持ったアキは、俺を見てにんまりと幸せそうな笑みを浮かべた。理由はわからないけど異常に楽しそうだ。
「だから、いいんじゃない? 今マジになって恋愛小説書こうとしなくてもさ。何冊か恋愛小説読んで、それを組み合わせたりして適当に話作れば、それでもいいんじゃないかって俺は思うよ」
「……そんなんでムツが納得すると思うのか?」
「んなこと言ったって、書けないもんはしょうがないじゃん。人には得手不得手があって当然だしさぁ。ムツだって馬鹿じゃないんだし、そんくらいは話せばきっとわかってくれるよ」
 あの傍若無人なムツの態度を見ていてどうしてそんなことが言えるのか不明だが、アキはやたらと自信たっぷりだった。
「そんで、今回はそれで乗り切るとして、さ。……いつかユキに本当に好きな人ができて、本気で恋したりしたら、その時に改めてそのことを小説に書けばいいと思うよ。で、それをムツに読ませればいいと思う」
 そう言って笑ったアキが、いつもと違ってこの時だけは何故か酷く大人びて見えた。
「ムツがユキに求めてるのって、多分そういうことなんじゃないかなぁ。ま、俺が勝手にそう思ってるってだけで、本当のところはわかんないけど」
 そこまで言ってまた恥ずかしくなったのか、アキは照れ隠しのように俯いて微笑んだ。口をぽかんと開いて呆然としている俺に向かって「じゃ、俺、これ捨ててくるわ」と言うと、そのまま目を合わせることなく図書館の出口の方へ行ってしまう。
 ……ムツが俺に求めていること、か。
 アキって普段ぼんやりしてるようで、時々こういうどきっとすること言うよな……事の核心に触れていそうなこと、というか。凄く言葉も拙いのに、聞いているこっちの胸に迫ってくるようなこと、とでも言えばいいか。
「あっ、要一?」
 出口の方から驚いたようなアキのそんなことを言う声が聞こえてきて、ふとそっちへ目をやると、そこではその言葉の通りにカナが文芸部印のノートパソコンと大量の歴史資料集を持って館内に入ってくるところだった。カナはよ、と言って軽くアキに向かって手を翻す。
「……どこか行くのか」
「あ、え、えーっと。……ちょっと、これ捨ててこようと思ってさっ。いっぱいになっちゃったから」
 持っているごみ箱をじっと見つめられてアキはどもったが、カナはその中身については追及せずに「そうか」と短く納得の意を伝えた。それでもアキはどこか落ち着かないようで、しばらくカナの目前でごみ箱を持ったまま挙動不審をやっていたけれど、
「じゃ、じゃあ行ってくるからっ」
「……ああ」
 何度見ても不思議な距離感の幼馴染だ、こいつらは。
「……よ、ユキ」
 アキが図書館を出て行くのを見届けると、カナはこっちへ歩いてきて俺にそう声をかけてきた。俺も軽く手を翻して挨拶を返し、それからいつも通り感情の欠片も窺えないカナの顔をじっと見つめて思考する。
 ……どうするべきかな。
「……どうした。俺の顔に何かついてるか?」
「あー……いや。大したことじゃないんだけどさ」
 流石にずっと見つめられて不審に思ったらしい、カナはさっきまでアキが作業していた席の隣に持っていたパソコンと資料集を置くと、若干不思議そうな顔をして俺に尋ねてきた。その段になっても俺はどうするか悩んでいたが、やがて意を決してブレザーの内ポケットに手を突っ込む。
 取り出したのは一枚のくしゃくしゃの紙。
「これ、アキが書いた詩なんだけど。よければ読んで、感想の一つでも言ってやってくれないか」
「……?」
 俺が読んでしまってアキに取り上げられた、「シンパシー」と題された例の詩だ。実はごみ箱に捨てられてしまったのを拾い上げた際、アキに取り返される前にこの一枚だけは密かにしまいこんでおいたのだ。
「そんでそれから、アキには返さないでムツに渡してくれ。……アキの野郎、このままだと一枚も原稿出さないで逃げるつもりだぜ。そうならないように、何とか上手く言ってやって欲しいんだ」
 俺が差し出した皺だらけのルーズリーフに、カナはしばしの間黙って透明な視線を注いでいたが、やがてご先祖が書いた大切な宝の地図でも受け取るかのようにそっと手にして、文面に目を通す。ダークブラウンの瞳が上から下へと文字を追い、そしてそれから、その瞳に浮かべられた表情が僅かに変化した。
「……これを彰が?」
「ああ」
「……そうか」
 カナにはそれだけで充分通じたらしく、俺の答えを聞いてそう呟くと、浅く吐息をついて薄い微笑をその大人びた面立ちに浮かべた。苦笑したような笑みだ。
 そしてそんな笑みでもってカナが独り言のように言ったこの台詞を聞いただけで、とりあえず俺は満足したのだった。
「……あいつも本当は色々考えているんだよな」

 月に何十冊と本を読んでいる俺の読解力を舐めるなよ、アキ。他のはどうか知らないが、この「シンパシー」なる詩だけは色恋をテーマにして書かれたものじゃないくらい、読めばすぐにわかっちまうんだからな。
 本当は言うつもりもなかった本音の部分を人に聞かれた時の思いってのを、そっくりそのままお前にも感じさせてやるよ。柄にもないことを言っちまった俺からの、せめてもの仕返しだ。


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