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多分このアキとの会話がきっかけになったのだと思う。
その日の午後いっぱいを、俺は図書館の一角に陣取って恋愛小説の有名どころを読むことに費やした。日頃滅多に手を出さない恋愛小説ばかりを十何冊と机に積み上げて読みふけったのは、何年か前に従兄弟の兄ちゃんから大量のロマンス小説をお下がりでもらった時以来だ。あの時は他に読む本もなかったので暇つぶし程度に読んだのだが、その俺が自らの意思で棚から恋愛小説を引っ張り出して読み漁るとはね。
ゲーテ作「若きウェルテルの悩み」やエミリー・ブロンテ作「嵐が丘」、伊藤左千夫作「野菊の墓」などの古典的なものから、村上春樹作「ノルウェイの森」、トルーマン・カポーティ作「ティファニーで朝食を」、江國香織・辻仁成作「冷静と情熱のあいだ」、市川拓司作「いま、会いにゆきます」、片山恭一作「世界の中心で、愛をさけぶ」……その他今が流行のケータイ小説からライトノベルのラブコメまで。
もちろん、目的はムツに命じられた恋愛小説を書くに当たっての参考にすること――場合によってはストーリーの一部をパクることであり(著作権だの何だのという厳しいご指摘についてはどうかご容赦いただきたい)、読み方は当然のように斜め読みだったが――
とにかく俺はその日、歴史小説の執筆に勤しんでいたカナと没原稿を捨てにごみ集積場へ行って帰ってきたアキとが揃って図書館を出て行ったのにも長いこと気がつかずに、夕方五時を過ぎてムツが本日終了を告げに来るまで、ずっと恋愛小説のめまぐるしい世界に浸っていた。
……。
…………。
「おーい、ユキぃ。お前はいつまで本の虫になってんだよ、一文字も原稿書き出さないでさ。いい加減帰んぞー?」
書庫に通じるドアの方から聞こえてきたそんな声に、俺の意識が緩やかに浮上した。その時俺は日日日氏の「私の優しくない先輩」を読んでおり、……そしてその瞬間、今更のように自分の身体が燃えるように熱くなっていることに気がついた。
図書館の吹き抜け天井に、こっちに近づいてくるムツの足音が薄く響く。
「おぉう? 何だ何だ、恋愛小説の代名詞みたいな本ばっかじゃねぇかよ。何、自分で書くのに参考にしようとか思った訳? 勉強熱心なのは感心だけどよ、言っとくけどパクリは駄目だからな。俺が読みたいのはあくまでお前が考えた百パーセントオリジナルのラブストーリーで――ユキ? 聞いてる?」
「……聞いてるよ……耳元でぎゃあぎゃあ騒ぐな、馬鹿……」
どうにも身体が倦怠感に支配されていて言うことを聞かず、俺は机の上に広げてあったハードカバーの本の上に突っ伏してしまう。それから顔だけを横向きにし、橋本紡氏の「半分の月がのぼる空」を手に取ってぱらぱらとめくっているムツの肩越しに、図書館の光景を網膜に焼き付ける。
日暮れも近い時間帯の光が窓から差し込んでくる図書館は、オレンジ色に映し出された小さな舞台のようだった。ムツの年不相応にハンサムな顔が同じように橙色に染まっていて、こうして下から見ても欠点のない顔立ちをしていることがわかる。イケメンに死角なしってやつか。……俺は何を考えているんだろうね。
「何、どうしたんだよ? ユキってば何か元気ないな。いつもならもっとすばっと的確に俺様の台詞に突っ込みを入れてくれるじゃねぇかよ。どうしちゃった訳?」
「別に……どうも……」
それより、もう帰るんだろ。そんで図書館で読書三昧している俺を呼びに来てくれたんじゃないのかよ。だったらぐちゃぐちゃ言ってる場合じゃないだろうが、お互いに。
だからさっさと立ち上がって本を棚に戻しにいきたいのだが――猛烈に身体が言うことを聞かない。だるくて重くてしょうがない。まるで精神と肉体の連結が上手くいかなくなって完全に分離してしまったかのようだ。そのくせ嫌な倦怠感ではなくて……変に甘ったるくて、頭がぼーっとして、ふわふわとよくわからない心地よさがあった。
つーか熱いんだよ。熱いんだって。
「……お前大丈夫か? さっきから全然ダルダルじゃんか。らしくねぇなー」
言いながらムツが俺の前髪を掻き揚げる。額に触れたムツの手はどこかひんやりと冷たく感じられて気持ちよかった。
ひんやりと冷たく? 本当にムツの手は冷たいのだろうか。
それとも、俺が熱いだけか?
ゆるゆると瞼が落ちてくる。
「って、おい……おまっ、すっご、おい! すっげぇ熱いぞ、ユキ! お前これ、ちょっとやばいんじゃないの!?」
そして瞼が完全に閉じられそうになった直前、ムツが驚いたような声を上げた。普段ならうるさいの一言でもぶつけてやるところなのだが、今の俺にはそんな力も残っていない。全身脱力状態だ。
「暖房も入ってないところで延々本なんか読んでたからだろ。うっわ……そういや心なしか顔も赤いし。大丈夫かよ、マジで」
珍しくムツは慌てたような声を出している。突発的に発熱した俺を見て相当取り乱しているようだ。こんな風に慌てふためくムツっていうのは珍しいな。俺はやけにじっとムツの整った顔を見つめていた。
「とりあえず書庫に行こうぜ。あっちならさっきまで人がいたし、ここよか暖かいからさ」
「……立てない。悪いけど、引っ張って立たせてくれ」
困ったように短く嘆息するムツに向かって左手を差し出す。ムツは何の文句も言わず、ただ眉をハの字に曲げるという困り顔を浮かべて俺の手を掴んで引っ張り上げてくれた。その手すらも冷たく感じられるのは、やはり俺が熱いからなんだろうか。
「あっつい……」
「そりゃこんだけ熱があれば熱いだろうよ。本当、何やってんだ、お前」
「熱いんだよ……」
「何回も言わなくたってわかるっつーの。お前な、確かに俺は褒められるほど頭良くはありませんけどね? だからってあんまり俺のこと馬鹿にすんじゃねーぞ――っとぉ、おわっ!?」
立ち上がった瞬間――頭がくらりとした。ふらついた身体を支えることができず、俺はそれまで座っていた椅子をもつれた足で蹴飛ばして倒してしまうと、すがりつくようにムツのブレザーを掴む。突然しがみつかれたムツが僅かによろめいたが、すぐに安定を取り戻した。
「ちょ、ユキっ、おまっ、ま、……マジでやばいんじゃねぇの!?」
ムツはわたわたと取り乱す。そのままずるずるとその場にしゃがみこんでしまいそうになるのを、俺は必死にムツのブレザーに指を絡めて耐えた。足元が酷く不安定でおぼつかない。上半身は一人では上手くバランスも取れないほどに重たい。
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