* * *

 多分このアキとの会話がきっかけになったのだと思う。
 その日の午後いっぱいを、俺は図書館の一角に陣取って恋愛小説の有名どころを読むことに費やした。日頃滅多に手を出さない恋愛小説ばかりを十何冊と机に積み上げて読みふけったのは、何年か前に従兄弟の兄ちゃんから大量のロマンス小説をお下がりでもらった時以来だ。あの時は他に読む本もなかったので暇つぶし程度に読んだのだが、その俺が自らの意思で棚から恋愛小説を引っ張り出して読み漁るとはね。
 ゲーテ作「若きウェルテルの悩み」やエミリー・ブロンテ作「嵐が丘」、伊藤左千夫作「野菊の墓」などの古典的なものから、村上春樹作「ノルウェイの森」、トルーマン・カポーティ作「ティファニーで朝食を」、江國香織・辻仁成作「冷静と情熱のあいだ」、市川拓司作「いま、会いにゆきます」、片山恭一作「世界の中心で、愛をさけぶ」……その他今が流行のケータイ小説からライトノベルのラブコメまで。
 もちろん、目的はムツに命じられた恋愛小説を書くに当たっての参考にすること――場合によってはストーリーの一部をパクることであり(著作権だの何だのという厳しいご指摘についてはどうかご容赦いただきたい)、読み方は当然のように斜め読みだったが――
 とにかく俺はその日、歴史小説の執筆に勤しんでいたカナと没原稿を捨てにごみ集積場へ行って帰ってきたアキとが揃って図書館を出て行ったのにも長いこと気がつかずに、夕方五時を過ぎてムツが本日終了を告げに来るまで、ずっと恋愛小説のめまぐるしい世界に浸っていた。
 ……。
 …………。

「おーい、ユキぃ。お前はいつまで本の虫になってんだよ、一文字も原稿書き出さないでさ。いい加減帰んぞー?」
 書庫に通じるドアの方から聞こえてきたそんな声に、俺の意識が緩やかに浮上した。その時俺は日日日氏の「私の優しくない先輩」を読んでおり、……そしてその瞬間、今更のように自分の身体が燃えるように熱くなっていることに気がついた。
 図書館の吹き抜け天井に、こっちに近づいてくるムツの足音が薄く響く。
「おぉう? 何だ何だ、恋愛小説の代名詞みたいな本ばっかじゃねぇかよ。何、自分で書くのに参考にしようとか思った訳? 勉強熱心なのは感心だけどよ、言っとくけどパクリは駄目だからな。俺が読みたいのはあくまでお前が考えた百パーセントオリジナルのラブストーリーで――ユキ? 聞いてる?」
「……聞いてるよ……耳元でぎゃあぎゃあ騒ぐな、馬鹿……」
 どうにも身体が倦怠感に支配されていて言うことを聞かず、俺は机の上に広げてあったハードカバーの本の上に突っ伏してしまう。それから顔だけを横向きにし、橋本紡氏の「半分の月がのぼる空」を手に取ってぱらぱらとめくっているムツの肩越しに、図書館の光景を網膜に焼き付ける。
 日暮れも近い時間帯の光が窓から差し込んでくる図書館は、オレンジ色に映し出された小さな舞台のようだった。ムツの年不相応にハンサムな顔が同じように橙色に染まっていて、こうして下から見ても欠点のない顔立ちをしていることがわかる。イケメンに死角なしってやつか。……俺は何を考えているんだろうね。
「何、どうしたんだよ? ユキってば何か元気ないな。いつもならもっとすばっと的確に俺様の台詞に突っ込みを入れてくれるじゃねぇかよ。どうしちゃった訳?」
「別に……どうも……」
 それより、もう帰るんだろ。そんで図書館で読書三昧している俺を呼びに来てくれたんじゃないのかよ。だったらぐちゃぐちゃ言ってる場合じゃないだろうが、お互いに。
 だからさっさと立ち上がって本を棚に戻しにいきたいのだが――猛烈に身体が言うことを聞かない。だるくて重くてしょうがない。まるで精神と肉体の連結が上手くいかなくなって完全に分離してしまったかのようだ。そのくせ嫌な倦怠感ではなくて……変に甘ったるくて、頭がぼーっとして、ふわふわとよくわからない心地よさがあった。
 つーか熱いんだよ。熱いんだって。
「……お前大丈夫か? さっきから全然ダルダルじゃんか。らしくねぇなー」
 言いながらムツが俺の前髪を掻き揚げる。額に触れたムツの手はどこかひんやりと冷たく感じられて気持ちよかった。
 ひんやりと冷たく? 本当にムツの手は冷たいのだろうか。
 それとも、俺が熱いだけか?
 ゆるゆると瞼が落ちてくる。
「って、おい……おまっ、すっご、おい! すっげぇ熱いぞ、ユキ! お前これ、ちょっとやばいんじゃないの!?」
 そして瞼が完全に閉じられそうになった直前、ムツが驚いたような声を上げた。普段ならうるさいの一言でもぶつけてやるところなのだが、今の俺にはそんな力も残っていない。全身脱力状態だ。
「暖房も入ってないところで延々本なんか読んでたからだろ。うっわ……そういや心なしか顔も赤いし。大丈夫かよ、マジで」
 珍しくムツは慌てたような声を出している。突発的に発熱した俺を見て相当取り乱しているようだ。こんな風に慌てふためくムツっていうのは珍しいな。俺はやけにじっとムツの整った顔を見つめていた。
「とりあえず書庫に行こうぜ。あっちならさっきまで人がいたし、ここよか暖かいからさ」
「……立てない。悪いけど、引っ張って立たせてくれ」
 困ったように短く嘆息するムツに向かって左手を差し出す。ムツは何の文句も言わず、ただ眉をハの字に曲げるという困り顔を浮かべて俺の手を掴んで引っ張り上げてくれた。その手すらも冷たく感じられるのは、やはり俺が熱いからなんだろうか。
「あっつい……」
「そりゃこんだけ熱があれば熱いだろうよ。本当、何やってんだ、お前」
「熱いんだよ……」
「何回も言わなくたってわかるっつーの。お前な、確かに俺は褒められるほど頭良くはありませんけどね? だからってあんまり俺のこと馬鹿にすんじゃねーぞ――っとぉ、おわっ!?」
 立ち上がった瞬間――頭がくらりとした。ふらついた身体を支えることができず、俺はそれまで座っていた椅子をもつれた足で蹴飛ばして倒してしまうと、すがりつくようにムツのブレザーを掴む。突然しがみつかれたムツが僅かによろめいたが、すぐに安定を取り戻した。
「ちょ、ユキっ、おまっ、ま、……マジでやばいんじゃねぇの!?」
 ムツはわたわたと取り乱す。そのままずるずるとその場にしゃがみこんでしまいそうになるのを、俺は必死にムツのブレザーに指を絡めて耐えた。足元が酷く不安定でおぼつかない。上半身は一人では上手くバランスも取れないほどに重たい。



「あっつい……」


「……これだから恋愛小説は嫌なんだ、」
 熱を放つ額をそのままムツの肩に押しつけて、俺は呟いた。
 独り言のように。
 ムツがいるのに、独り言のように。
「馬鹿馬鹿しくて、やってられなくて、ご都合主義満載で、まどろっこしくて、もどかしくて、読み続けるなんて一瞬たりとも我慢できないくらいなのに……なのに読み進めれば読み進めるほど、一文一文から染み渡る苦みと甘みが毒みたいに身体を回って、ページをめくる手が止められなくなる」
「……」
「自分が自分じゃなくなるみたいで嫌なのに、意に反して無意識の部分は物語の続きを欲しがって。タチのいい麻薬みたいで。もう手遅れなんじゃないかと思った時にはすっかり中毒になってる。身体は言うこと聞かなくなるし、頭は働かなくなるし、熱くてだるくて面倒で、なのに――何でか悪くない、かったるさで」
「……」
「甘ったるくて心地よくて、少しだけ苦しくて……独りになりたくて決定的に放っておいて欲しい反面、滅茶苦茶、人恋しくなって」
「……」
「だから恋愛小説は……嫌いなんだ」
 そのまま目を閉じた。
 元々ムツの肩に額を押し付けていて視界はあってないが如しだったけれど、もうここに存在する一切を網膜に映したくなかった。淡く夕日の色に染まった閲覧机や書架だとか、こなれたブレザーの紺色だとか、木の床に真っ直ぐに伸びた俺達の一本の影だとか、切らずに長くなりすぎた鬱陶しい俺の前髪だとか、ムツの染めた訳じゃない天然の茶髪が光を受けてきらきら光っているのだとか、……目を見開いて俺を見下ろしているのが雰囲気で伝わってくる、そんなムツの面食らった表情だとか、そういう何もかもを俺は拒否する。
 目にしてしまえば、それら全てが甘く感じられてしまうだろうから。
 指の股の間に感じられる制服の布の感触だけが、無駄にリアルに感じられた。
 図書館は静かだ。
「……、あの、ユキさん?」
 果たしてどれほどの時が経過した頃だっただろうか。
 やがて後頭部にひんやりとしたものが添えられる。緩やかに俺の髪を撫でるそれがムツの手だと気づくのに、また数秒かかった。
「……。何?」
「ひょっとしてだけどさ……お前、酔ってる?」
 ……酔っている、ねぇ。
 そのムツの言葉くらい、今の俺を的確に言い表している言葉もないだろう。
「よくわかんないけど、熱くてだるくて、なのに甘ったるくて心地よくて少しだけ苦しいとか、それって酔ってるんじゃね? お前は自分で麻薬とか言ってたけどさ、そんなやばいもんじゃなくて、酒飲んだみたいになってんじゃねぇの? なぁ」
「……」
「恋愛小説読んで酔っ払うとか、俺、聞いたことないんだけど。どういう体質してんだよ、お前」
「……」
「……何で無言なんだって」
「……」
「その沈黙にどういった意味合いがあるんだよ」
「……」
「なぁ、おい、ユキってば、」
「……黙れ」
 ムツのブレザーを掴む手により一層の力を込めた。
 そうでもしないと、こうしてムツにすがったまま、みっともなく膝から崩れ落ちてしまいそうだった。格好悪い。そう思っていても、身体は俺の思った通りに動いてはくれない。
「……なー。ユキ、いつまでこうしてんの?」
「……」
「メグとミキも待ってるし、いい加減そろそろ帰りたいんだけど」
「……無理。しばらく動けそうにない」
 ムツの言った通り、酒を喰らい過ぎた後のようにふわふわとしていて、書庫まで移動することはおろか一人で立っていることさえ、もう少しの間はろくにできそうもなかった。
 酔っている。
 そう、俺は多分酔っているんだと思う。
 いつぞや従兄弟の兄ちゃんに贈られたロマンス小説十五冊を一気読みした時と全く同じ症状だ。あの時は確か傍でゲームしていた兄ちゃんにすがりついたんだったと思うが、どうやら俺という人間は、酔いが回ると無駄に人恋しくなってしまうらしい。
 酔った原因が恋愛小説ともなれば――尚更。
 なんて、冷静に分析する余裕も、この時の俺にはなかった。
 どうすることもできずに立ち尽くしているムツに、しがみつくようにすがって身体を支えてもらうことしかできなかった。
「……なー。ユキ、しばらくってどんくらい?」
「……」
「日が暮れちまいそうなんだけど……」
「……」
「もしかして俺にずっとこうしてろっつーの?」
「……」
「何とか言えっての」
「……うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい」

 結局俺とムツは、たっぷり十五分くらいの間、そうして図書館の真ん中で突っ立っていた。
 その日の帰り、前後不覚な俺が一体どのようにして家まで帰り着き、その後どんな風に自宅で過ごしたのかを、申し訳ないことに俺はほとんど覚えていない。どうやら俺の怠慢な記憶領域が覚えておくことを拒否したようだ。
 余談だが、この翌日のムツはやたらと不機嫌そうにしており、一日の活動が終わるまで一言も俺と口を利かなかった。


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