* * *

 人生何が起こるかわからない。
 まさか中学に入学してわずか一ヶ月足らずで初の恋人ができてしまうとは、ついでにその相手が(男子校生であるとはいえど)学年でトップクラスに可愛いと噂される超絶美人だとは、一体神様って奴は俺にどんな貢物をさせたいんだろうね。賠償金はいくらくらいがお望みなんだろう。どこか半島でも差し出せばいいのか?
 ……なんてことを、ミキと二人で色々と話し合ってからの五時間目、先生のつまらない話を右から左へ聞き流しながら、俺はぼけっと考えていた。だってそうだろう? ぶっちゃけた話、俺は全く冴えたところのないごくごく普通の一男子だ。確かに読書好き、図書館入りびたりという特殊な趣向を持った人間ではあるが、それ以外は何ら目立つところのないかなり「地味な」人間だと俺は思っている。その根拠として、これまでの人生クラスで人気者になったこともなければ権力様々のガキ大将にさせられたこともないし、放課後や休み時間にこっそりと呼び出されて可愛い女の子に告白されたこともない(ある奴いたらちょっと殺したい)。下駄箱にラブレターと思しき紙切れ一枚入っていたことがない(ある奴殺していいか?)。低学年や高学年では明らかに周囲から浮いていたために疎外もどきを受けたことがあるが、それは誇れるものでは何をどう頑張ってもないしな。
 そんな俺が、中学に来て早々に恋人を作り、更にその相手が学校のアイドル的存在なんて。
 しかも、こっちからじゃなく向こうから交際を申し込まれたという、チョコボール金のエンゼル並みな革命だ。驚天動地とはまさにことのことを言うんだろうね。天変地異と言ってもいいかも知れない。いずれにせよ、人生は何が起こるかわからない。
 ……まぁ、いくら可愛いとはいえ相手が男だっていうのは、ちょっといただけないところがあるが。でもミキは別だ、別格も別格。原付自転車と自動大型二輪くらいの差がある。
「じゃあ次、野瀬の隣に行って――」
 と、そこで先生が俺を指名した。慌てて立ち上がり、開いていただけで全く読んでいなかった国語の教科書を持ち上げる。しまった、聞いていなかった。軽く流していたから本文を音読していたっていうのはわかるんだが……はてさて、どこから読めばいいんだろう。
 隣の席から俺を見上げる視線があるのに気がついて、俺はその視線の送り主であるムツを横目でちらと見る。助けてのサインのつもりだ。ムツもそれがわかったのか小さくうなずくと、「十三ページの二行目」と小声で告げてくる。
 とりあえず読んでみた。
「どこを読んでるんだ!」
 ……怒られた。違ったらしい。畜生、ムツの奴、嵌めやがったな。
「もういい、次、隣――」
 先生が送ってくる厳しい視線をびしばしと受けながら力なく椅子に座り、隣の席のイラつくイケメン面を睨みつけた。そんな俺にムツは心外だと言いたげに眉を寄せると、大げさにため息をついてきやがる。
「聞いてねぇ方が悪いんだろ? お前、いつも俺にそう言ってるじゃん」
 ……くそ、こんなことなら日頃「どこ?」と聞いてくるハンサムフェイスににこやかな無料スマイルで教えておくんだったな。俺も負けじとため息をついた。
「自業自得?」
 むっかつくー……。
 こんな時には可愛い恋人のことでも考えるとしようか。ミキは可愛いなぁ。放課後の部活がこんなにも待ち遠しいことはない、早くあのピンクひまわりの笑顔に会いたいものである。うん、ミキは俺の心の癒しだ。多分ミキを知る男の大半は同じように思ってるんだろうけど、俺のとは格が違うね。別格も別格、原付自転車と自動大型二輪くらいの差が――
「……ひっでぇ顔。緩みまくり」
 隣でムツが忌々しそうな口調で言った。
 ほっとけ、ホストのなり損ない。

 次の日から、俺とミキの怒涛の恋人生活がスタートした。

 とは言っても、あの体育館裏での告白後に行なわれた話し合いでミキが「公にはしたくないんだけど……ごめんねっ我儘言ってばっかでさぁっ」と言ったので、俺達の日常はそう大きくは変わらないのだが。やっぱりミキも、男同士で付き合うから周囲の視線を気にするところがあるようだ。それでも「今日、一緒に学校に行かない?」と朝一番でメールしてくれるんだから、これはもうだらしなく頬を緩めない方が無理って話だよな。
「……お兄ちゃん、何か今日変」
 鼻歌交じりに歯を磨いていたら、四つ年下で今年小学三年生になった妹がぼそりとそう言ってきたが、まぁほっとけ我が妹よ。いつもなら「変」なんて憎たらしい口調で言っただけで首を絞めてやるところだが、今の俺は機嫌がいい。聖人君子になったつもりで見逃してやるよ。というか、今なら真剣に聖人君子になれる。
「……お兄ちゃん、ますます変」
 流石に二回目はむかついたので、拳骨で頭を殴った。俺の態度はいいお兄ちゃん像からは程遠い。ならそれでもいい、だったらいい彼氏像になってやるだけさ。
「お兄ちゃん超、変」
 妹の悪口を背に家を出て、最寄の南林間駅まで自転車を飛ばす。青空の下軽快にペダルをこげば、今度は「鼻歌♪」ではなくて「歌♪」が飛び出した。ちょっと恥ずかしい。駐輪場に自転車を停め、上りの小田急線に飛び乗り(今日は発車時刻ぎりぎりだったので本当に飛び乗った。身体が軽い)、目指すはミキの最寄・相模大野駅だ。
 到着した駅で一旦電車を降り、待ち合わせ場所である改札へ赴く。自動改札は抜けずに待っていると、しばらくしてから長い茶髪を人ごみの中でたなびかせながらやってくる小柄な人影が見えた。
 他の通勤・通学客よりも頭一つ分くらい低い背に、制服を着ていなかったら絶対に女子に間違われるそうな可憐な姿。俺を見つけ改札を通りながら小さく手を振り、人の中を縫って駆け寄ってくるのは俺のミキで正しい。
「おはよっ、ユキっ」
「……ん、おはよう」
 軽く挨拶を済ませて、どうしていいか急にわからなくなりほんの少し見つめ合った後、気恥ずかしそうに視線を逸らして「じゃあ行こうか」とミキは言う。俺がうなずくと先に歩き出した――ただし、俺のブレザーの袖口を小さくつまんで。
「ん……何?」
「……いや」
 妹よ、すまん。
 お兄ちゃんはもう本当に変になってしまうかも知れない。

 更に困ったことには、ミキは昼休みになって俺のところに弁当持参で現れた。
「一緒に食べてもいいっ?」
 クラスが別な故、部活のチームメイトではあっても今まで一緒に昼食を取ることはなかったミキが、今日も中庭に行こうと準備している最中にやってきてそんなことを聞くものだから、聞かれた方のムツとメグは驚きのあまりかお互いに顔を見合わせた。
「別にいいけど……でも、ミキが僕達と一緒に、なんてどういう風の吹き回し?」
「うんっ、ちょっとなっ」
 目をぱちぱちと瞬かせながら頭の上にクエスチョンマークを浮かべたメグに、ミキは小さく笑うと、少し意味ありげな視線を俺に送ってきた。思わずどきりとする。幸いムツとメグは気がつかなかったようだが、中庭で四人、弁当を広げている間にも、ミキの行動言動の一つ一つに俺はひやひやしたりほっとしたりすることとなった。自分から公にはしたくないと言ったくせに、いそいそと俺の隣をキープしたり、先に買ってきたらしい購買のパン(今日も懲りることなくメロンパン)をちぎってムツとメグの見ていない隙に俺に差し出してきたり。もはや日常茶飯事になっているムツとの漫才めいた口喧嘩でも、さりげなく俺の味方をしてくれたり……ミキの行動はあんまりに大胆だ。その大胆さ、なかなかに嬉しいね。
「……何かミキ、今日ユキの方ばっか味方してねぇ?」
 ムツは大層面白くなさそうで、それだけでも俺は大満足だった。残念だったなイケメン面、可愛いミキは昨日俺にこう言ってくれたんだよ。
『俺はいっつもユキの味方だからっ。……だから、ユキも俺が困ってたりしたら助けてくれよなっ』
 隣に座っているミキをちらりと見てみる。ミキは俺の視線に気がついて微笑み返すと、ムツ達には見えない死角のところでそっと手を握ってくれた。
 ……可愛くてたまらない。

 幸せモードは部活中を通り越して下校中も続いた。
 練習している間もずっと、部室から飲み物を持ってきてくれたり、休憩中も隣にいてくれたり(ムツが引っついてきて騒ぐのはいつものことだが、ミキは大抵メグと一緒にいる)、何かと俺の傍にいるようになったミキに、流石のムツとメグも俺達の間で何かあったらしいと薄々気づいたようだ。
「何があった訳? 二人共変な風に仲良くねぇ?」
 下校中、そう言って端整な顔を怪訝そうに歪めたムツに、ミキは黒い触覚と尻尾と羽をつけたら様になりそうな小悪魔的な笑みを浮かべて、
「えー、何もねーよ? なっ、ユキっ」
「……そうだな、何もないな」
「何か変……」
 ミキに合わせて俺が言うと、不思議そうに目を瞬かせてメグが小首をかしげた。
 そんな調子での下校だったが、あまりにも俺達の態度が変だったためか、学校最寄の駅までの道も電車内でも、ムツとメグは俺達の間には入ってこようとしなくなった。いつの間にか不自然な二対二にわかれていて、ふと気がつくと二メートルくらい距離を置いてしまっているなんてこともしばしば、しかし意図的に近寄ったり呼び寄せたりすることもなく、傍目から見ればやっぱり不自然以外の何物でもなかっただろう。
「じゃあなーっ、ムツ、メグっ」
「うん、明日ー」
「明日な」
 町田駅でムツ、メグの二人と俺達が別れる時、手を振っての別れ際に俺達の方を見てムツが「……なぁんか気に喰わねぇ」とぼそりと呟いたのを聞いたが、まぁ、残念だったなイケメン面。そんなムツの嫌悪感を嘲笑うかのように、その後俺とミキは、次の停車駅であるミキ最寄の相模大野駅につくまで、電車内がそれなりに混雑していることを口実に、ドア近くの隅で身を寄せていた。
「……ありがとな、ユキ」
「何が?」
「色々と」
 少し潤み気味な目で見上げられる。ミキの身長と俺の身長は大して変わらないのでそこまではっきり首を持ち上げられている訳ではないのだが、ミキ特有の上目遣いはほとんどないに等しい身長差を大きく感じさせる。淡褐色の瞳が大きくて黒目がちなその双眸は扇情的で――
「……別に。気にすんな」
 俺はミキから視線を逸らし、軽く身を引いた。視覚によるものと、身を寄せていた故のふわりと暖かい体温とで、身体が――
 いやぁ、俺もまだまだ若い。

 家に帰ってごろごろしていれば、携帯電話が鳴る。
 しばらくメールで、他愛のない話をする。
 その内我慢できなくなって、俺から電話をかける。
 また他愛のない話をする。
 ミキは言った。
「あのさぁ、ユキ。……もし俺がさ、誰か他の奴に告られるなりなんなりしたらさ、」
「……うん」
「一緒に断わってくれるか?」
 少しの間の沈黙を置いて、俺はため息混じりに電話口でうなずいた。
「……当たり前だろ」
「本当?」
「嘘吐いてどうするんだよ」
「そっかっ。それもそうだなっ」
 切ない色合いで明るい言葉の後に、また少しだけ無言の時が刻まれる。電話の向こうからミキの息遣いだけが聞こえてきた。
 それが途切れた時、また声がする。
「……さんきゅー、ユキ。頼りにしてるなっ」

 そんな日々が――
 一週間続いた。
 一週間続いて、九日間過ぎた。
 夢のように幸せで。
 幻のように、短かった。
 あっという間だった。

 そして、その日は唐突に訪れた。


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