* * *

 俺とミキが付き合い出して十日目の放課後のことだ。
 ラッキーなことにその週掃除当番を抱えていない俺は、同じく当番のないムツ・メグと共に割と上機嫌で教室を出ようとしていた。ここにその二人がいなければ鼻歌の一つでも歌っていたところなのだが、その理由が掃除当番がないことだけではないのは言うまでもないだろう。これから部活だ、それだけ言えば充分にこと足りる。よって割愛だ。
 そしてその上機嫌を半分は上昇させ、半分は下降させる人物が、廊下に出たところで待っていた。
「……あ」
 目が合って、相手は小さく声を上げる。どこか緊張気味の表情をそのプリティーフェイスに浮かべていたのは、他の誰でもない俺の可愛い恋人で間違いない。
「……よぅ」
 俺らしくもない蕩ける甘さの代名詞を脳内でミキに与えてしまった俺は、それが恥ずかしくてそっけない返事をしてしまった。が、ミキにはどうやらそれだけで充分だったらしい、小さくうなずくと俺の下半身をゲル状にしようとしているとしか思えない極上の微笑を浮かべてきやがった。参ったな――ところがそれはほんの一瞬のことで、すぐにその笑みは消滅し、元の張り詰めた空気を冷たくまとった表情がその顔を支配する。
「ユキ……」
 と、その口は微かに開かれて、不安そうな口調でもって俺にそんな台詞を届けた。
「ちょっと来て」
「……いいけど」
 何事だろうと思いつつ了承すると、ミキはいきなり俺の手首を引っ掴み、周囲の驚いたような視線を気にも留めずずかずかと歩き出す。遅れて教室を出たムツが背後から「おいおい逢引きかよ、放課後に」とほんの数日前にも聞いたような台詞を吐いているのが聞こえたが、ミキがどんどん行ってしまう上に俺の手首を固く握り締めているため、立ち止まって何か言い返すことは叶わなかった。仕方なく、俺はミキについて歩くことに集中する。
 普通に考えて、部活に行こうとしているんじゃないよな。
 一体何だっていうんだ?

 その答えは、ミキに連れてこられた例の体育館裏にあった。
 五月病なんて多くの人は楽勝でぶっ飛ぶだろう五月晴れが作り出す木の影の中、そこには先客として一人の男子生徒が立っていた。体格や風格からして恐らくは中等部三年生か高等部一年生の先輩だろうと思しき彼を見た瞬間、俺の手首を掴むミキの手に力がこもるのを感じて、ミキのここに俺を連れてきた理由がまさに彼であるというのを俺は理解する。となれば、何故ここに彼がいて、俺が連れてこられたのか、導ける答えはそんなに多くない。
 ふむ。
「すいません。遅くなりました」
 俺を掴まえたまま彼の正面まで赴き、ミキはあまりにもな棒読みでそう告げた。恐らく頭は別のことでいっぱいで、口調などそんなところに気を遣っていられないのだろう。相手たる彼もそれがわかっているのか、指摘をしてくることはなかった。彼もまたそれどころではないに違いない。
「率直に言うよ。付き合って欲しいんだ」
 違いない、と確信していたからこそ、彼のその一言は完全に俺の予想範囲内だった。続けられた言葉には理解のみならず共感さえ覚えてしまう。
「男として男に惚れる感覚を理解してもらえるとは思ってないけど……でも、君が好きなんだ。誰よりも大切にしようとも思う。だから……」
「――ごめんなさい」
 そんな台詞を全て聞き終える前に、ミキはきっぱりとそう答えた。伏しがちになった目は既に彼を映してはおらず、手首を掴まれたまま横から覗き見ればそこに浮かんでいるのは悲愴と苦渋のみだ。瞳が無駄に大きなその目は、ただひたすらに虚ろだった。
「……やっぱりね。まぁ、そうじゃないかとは思ってたけど」
 うなだれているようにも思えるミキに、彼はそう言って嘆息する。
「そこに連れてきてるそいつは言い訳? それとも一人じゃ不安だから?」
「……言い訳、です」
 ぼそぼそといった感じの口調で、ミキは暗く告げる。彼はそんなミキと隣で突っ立っている俺とをしばし交互に眺めてから、ついに俺に台詞を振ってきた。
「そうなのか?」
「……そうですけど」
 確かにミキと付き合っている訳だし、そう答えた。ミキがこんなにも悲愴な表情を浮かべて「そうだ」と言っているんだから素直に信じろよ、という思いがこもってしまい、ちょっと憮然とした言い方になってしまう。
 そうか、と彼は言った。
「口裏を合わせてるとか、そういう訳ではないのか……」
「……はい」
 再びため息をついて自分を見据えてきた彼に、ミキは声だけで肯定した。
 そこには、言い訳――俺と付き合っているという事実に対する自信は、欠片もなく。
 いつの間にか、ミキの手は俺から離れている。
「……そっか」
 昼夜問わずミキのことばかり考え続けてきたのだろう彼にとっては、そのミキの様子とミキが連行してきた俺、プラスわずかな会話だけで充分だったらしい。そう独り言のように呟くと、ミキとも地面ともとれない場所に視線を彷徨わせた後で、最後にこう尋ねた。
「せめて、これからも服部のこと、好きでいてもいいか?」
 うーん……
 一途もここまで来ると、いっそ立派だな。
「……」
 が、ミキの答えは、首を力なく左右に振る動作と、次の言葉。
「俺のことを好きでいても、先輩は幸せにはなれません。俺との間にあるのは、絶対的な不安と世間に対する背徳感だけですよ。それは……俺とこの人との間でもそうです。不安と隣り合わせの幸せで。でも、そんな風に生きるのは俺達だけで充分。……先輩は、俺以外の誰かを、ちゃんとした人を、好きになってください」
「……。わかった」
 思えばミキと彼とのこのやり取りは、時間にすれば五分にも満たない間のことだったろう。苦い顔でうなずいた彼が夕方も近い体育館裏から去った後も、俺はあまりのことに理解が追いつかず、何やら呆然とするばかりだった。ミキは彼に思いを告げられ、俺と付き合っていることを口実に断わった。ただそれだけのことなのに、何かが頭の片隅に引っかかってすんなりといかない。
 まず、今ミキは何と言った?
 絶対的な不安と、世間に対する――背徳感?
「……うっ」
 呆然と彼の去った方を眺める俺の行動は、隣から唐突に発せられたそんな嗚咽によって制止された。驚いて声のした方を見ると、なんとミキが目からぽろぽろと大粒の涙を零している。それが頬を伝って地面へと落ちるのと連動するように、懸命に殺そうとしつつも押さえきれていない声が白い喉から漏れていた。おい?
「……うっ、うっうっ、うぅ……っ」
 一体何だ、何がどうした?
 ミキは俺をここに連れてきた思惑通り、あの人の告白を断わっただろう? 思うようにいって大成功のはずだ。なのにどうして泣く必要があるというんだろう。何だ、それはちゃんと断われて安心した故の涙なのか?
「うぅっ……うくっ……うっ、うっ」
 ミキは俺の困惑をよそに泣き続ける。その嗚咽は、俺を更なる混乱に陥れるのに充分だった。手首から消えていたミキの手の温もりが再びそこに宿る。かと思ったら、ミキはそのまま俺の肩のところに顔を押しつけてきた。
「うう、うっう、うっ……ひっく……」
 どんどん混乱の渦に巻き込まれる一方で、俺の頭脳はやがて冷静になってきた。異常な状況にショートしかけた頭の回線が、ランナーズハイのように一種の境地へ到達したらしい。
「とりあえず、どこか行こう。歩けるか?」
 俺はいきなり泣き出したキュートな同級生に、そうやっとのことで思いついた言葉をかけると、微かにうなずいたミキを、今度は俺から手を取って連れ出した。忌々しい雰囲気が立ち込めた、体育館裏から。
 ともあれ一つわかったことがある。
 特に根拠がある訳ではないが、夢のように十日間続いたミキとのアブノーマルな完全恋人生活は――多分これで終わりだ。
 何でかな、こういういらない勘なんかは、生まれつき所有しているのさ。


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