* * *
そうこうしている内に、学園祭は三日後に迫ってきた。
「『どんな風にするのですか? 貸してください、私にも上手くできるものなのかやってみたいのです』……うー」
この時期になると、もうところどころ台詞が曖昧になるのは俺くらいなもので、記憶力に自信がない故に一日中台本を手放せない日が続いていた。ムツに巻き込まれているだけの俺がどうしてここまで地道な努力をしなければならないのか全くもって理解に苦しむが、学園祭当日の舞台でただ一人恥を晒すことを考えると、やはり最低限は台詞を言えるようにしておこう、と思ってしまう。
自分の記憶力に自信がないのは昔からだ。
自信がない部分は、努力で補うしかない。
……このチンケな中高一貫私立男子校を受験しようと塾に通い詰めていた頃の自分を思い出しつつも、昼休みの中庭を台本と図書館で借りてきた文庫本五冊を片手にうろうろしている俺、というシーンである。
「……一人じゃ悲鳴はあげられんな」
オーロラ姫が指をぶっ刺して断末魔を上げばったり倒れるシーンを、そんな独り言でごまかした時だった。
視界の片隅に見慣れた色素の薄い髪の頭が映り、俺はふと足を止め、台本から顔を上げた。中庭の中央に植わっているハナミズキの木の下に丸く広がる芝生に寝そべり、俺が持っているのと同じ冊子をめくっているのはムツで、どうやら俺と同じく劇の流れを確認している最中らしいな。
……俺のやってることはあのハイテンション馬鹿と同じかよ。
とか忌々しく思ってから、俺は王子様役のムカつくハンサムフェイスに声をかけるべきか否か少し悩む。奴の台本を読む目はどこまでも真剣で、邪魔するのが躊躇われたため、結局は黙ってその場を通り過ぎることに決めた。
再び歩き出そうとする前に、ほんの十数秒だけ、木の下のムツを眺める。
秋を目前にした夏の名残の風が中庭を吹き抜け、ムツの色素の薄い髪をさらりと揺らす。字を追って伏せられた目は、長い指がページをめくると同時に視線の先を変え、また上から下へと文字を追っていく。組まれた脚は身体の半分以上もあるんじゃないかというほどに長く、木の葉が作り出す光と影の模様の中でのその姿はさながらプチモデルのようだ。もっとも、実際にモデルになるにはもうちょっと身長が必要だろうけどな。
――まるで映画のワンシーンのようで、一瞬、呼吸をすることを忘れた。
そうして十数秒だけでもそこに留まってしまっていたのがまずかったらしい。再び目がページの端に伏せられ、台本をめくりもう一度上へ戻ったところで、本当に唐突にムツはこちらを見た。自分が持っているのと同じ台本と、文庫本五冊とを手にぼーっとつっ立っていた俺に気がついて、「おっ」と嬉しそうに身を起こす。
「ユキじゃん。何してんの?」
「……図書館に行ってきた帰りだ」
気がつかれてしまったのならしょうがない。
正直にそう答えると、ムツはへえぇ、と言って嬉しそうに顔をにたつかせた。
「中庭は教室への帰り道には含まれてねぇはずだけど?」
「どこを通って帰ったって俺の勝手だろ」
「珍しいこともあるんだな。出不精のお前が中庭をうろうろしてるなんてさ」
「……うるさい」
不機嫌に言い返した俺だったが、実のところ、俺が中庭をうろついていたのは劇の練習をするためなのだった。
春先や夏の終わりは、昼休みの中庭は昼食を取ったり友人と談笑したりする生徒で溢れ返る。しかしながら、この時期は昼休みも学園祭に向けての準備で忙しい奴が多いのか人がぐっと減っていて、今だって中庭には俺とムツくらいしかいない。人前で台本の台詞をぶつぶつ呟けるほど俺は変人をやっていないので、せめて人の少ないところと思い中庭にやってきたのだ。
ムツは多分、そんな俺を茶化しているんだろう。
「その台本、へえぇ……何だかんだで結構やる気なんじゃん、ユキ姫ちゃんってばさ。お前のそういうところが可愛いよ」
「うるさいうるさい。ユキ姫ちゃんって呼ぶな、可愛いって言うな」
「ムキになって言い返すところがあーやしい」
「黙れって」
これ以上こいつと会話していると脳天から煙が出そうなので、俺は早々に中庭を立ち去ることにした。劇の練習にしてもとりあえずここはよそう。ていうか何で、偶然にもムツがいるのと同じ場所に来ちまうかな、俺は。偶然にしたっておかしいだろ。全く。
「待って、ユキ」
ところが、最後に捨て台詞を残して歩き出そうとしたところで、そうムツに呼び止められた。振り返ると、王子様役のイケメン面は木陰で立ち上がりワイシャツと制服のズボンについた芝を払っている。
「……用がないなら帰るぞ」
「だから待てって。あのさ、」
ムツは顔を上げる。そこに、さっきまでのにやついた笑顔はない。
「どうせお前、台詞読む練習するためにここに来たんだろ?」
からかうような言い方ではなかった。
俺は小さくうなずく。
「だったらさ。今、ここで俺と練習しねぇ?」
滅多に見られないどことなく真剣な表情で、ムツはそう言った。
「何で」
「何でって。台詞、ただぶつぶつ唱えてるんじゃ覚えられないだろ? 俺達以外の奴等もいないし、動きながら練習した方が覚えられるんじゃないかって思うんだけど」
「お前は台詞、ほとんど覚えたんだろ。俺に付き合ってくれなくてもいい」
「別にユキに付き合ってっていうんじゃねぇよ。俺もやりたいんだって」
再び立ち去ろうとすると、そう少し余裕のない言い方で返される。
仕方なくもう一度、立ち止まってムツを振り返った。
「俺とお前、一緒にやるシーンもあるし。俺も台詞ちゃんと覚えられてるかイマイチ自信ねぇから、聞いてて確認して欲しいし。ああ、あとお前、あんまり演技自信ないだろ? アドバイスとかしてやれるぜ」
「いいって」
「人の厚意はありがたく受け取っとけ。じゃないと損するぞ」
「……。……」
ムツが手招きしたので、仕方なく俺はムツの待つハナミズキの木の元へと歩み寄った。ムツは満足そうに笑みを浮かべてから、じゃあやるか、と台本を開く。
「先、お前でいいよ。俺がミキの台詞読むから、あの紡錘に指ぶっ刺して倒れるシーン、やってみ?」
「……ここでかよ。恥ずかしい」
「誰も見てねぇって」
俺以外はな。
と、ムツは言う。仕方なく台本を広げ、俺はページをめくって自分の台詞を読み上げる。
『ここで何をしていらっしゃるの、おばあさん?』
『糸を紡いでいるのですよ、可愛いお嬢さん』
同じように台本を開いたムツが、本来ミキが読む台詞を読み上げた。
『まぁ、なんて素敵なんでしょう! どんな風にするのですか? 貸してください、私にも上手くできるものなのかやってみたいのです』
『いいですとも。指など刺さぬよう、十分注意して、やってみて御覧なさい』
ムツが小道具の紡錘の代わりに自分の台本を丸め、俺に差し出す。
あとは紡錘を受け取り、小さな悲鳴を上げて倒れるだけだ。俺は自分の台本を閉じて芝生の上に置くと、ムツに差し出された藁半紙の簡易な冊子にそっと手を伸ばした。
『ぁっ……』
指を突き刺してしまった……という設定の俺は、演技で小さく身体を震わせると、二、三歩よろめいてから芝生の上にすとんと座り込む。そのままふらりと上半身を揺らして、涼しげな芝生へと倒れた。
「うーん。大体いいな」
すぐさま芝生から身を起こした俺に、ムツはそう言って俺の台本を拾い上げる。
「ただ、台詞と身体だけで演技してるから、ちゃんと表情作りな? 遠くの客席じゃわかんないけど、前列の客は結構表情も見るから」
「……わかった」
悔しいが、仮入期間中を始め演劇部に通い詰めているムツの演技指導は筋が通っている。俺が素直にうなずくと、よし、とムツは満足そうに微笑んだ。
「じゃ、もう一回」
「またやるのかよ!」
「演劇は体育会系。やった分だけできるようになるんだぜ?」
ムツに促されてもう一度、さっきのシーンを今度は全て所作つきで演じる。
一通り指を刺して倒れるところまでを演じてから、
「じゃあ、次は俺な」
「どこをやるんだ?」
付き合ってもらったのにこっちは何もしないんでは、いかにムツ相手と言えども気が引けるのでそう尋ねてやると、ムツは台本をめくってこう答えた。
「そうだなー……ラストの、お前と俺とのシーンでどうよ」
「……えっ」
よりによってそこかよ……。
最後の方に俺とムツとで演じるシーンといえば、フィリップ王子が城に張り付いていた悪い妖精の使いと悪い妖精を退け、いよいよ眠っているオーロラ姫の目を覚まそうと――口付けをするシーン以外にありえない。
俺が少し嫌な顔をすると、ムツはあのな、と言ってため息をついた。
「ユキが嫌なのはわからなくもないけど、劇の本番でやらなきゃいけないもんは否が応でもやらなきゃいけないんだぜ? それにこのシーン、結構最後の方だから、台詞とか動きとかあんまり自信ないんだよ」
そりゃあユキは寝てるだけだからいいけどさ。
ムツはそう言って口を尖らせた。
「だけど……今、ここでかよ」
中庭を見回す。今のところは人はいない。だけど、いつ誰が来たっておかしくない場所だ。いかに劇の練習といえども、ムツとキスしようとしている現場なんて俺は見られたくない。酷い噂が学校中に流れる様子が目に浮かぶようだ。
「大丈夫だって。頼むよ、ユキ」
けれどムツがあんまり真剣な顔をして頼むもんだから、俺はしぶしぶと了解した。
「さんきゅー。助かるぜ」
嬉しそうに礼を言ってくるところを見ても、多分真面目に劇の練習がしたいだけだろうし……。
「どこからやるんだ?」
「えーっと。二十三ページの、殺陣が終わったところからでいい?」
「わかった」
王子と悪い妖精が激しい戦いを繰り広げているのと中幕を挟んだ後ろで、俺は大道具のベッドに寝かされた状態で待機することになっている。殺陣のシーンが終わったところで、中幕が開いて俺が現れるっていう寸法だ。
ムツが言っているのはその中幕が開いたところからだろう。
「じゃあ……」
芝生の上に仰向けで寝そべり、目を閉じる。
「始めるぞ。……『おお、これがかの眠りの森の姫か。なんと美しい姫君であることか!』」
ムツが台詞を言い始めたところで、俺は薄く片目を開いた。台詞は思わず吹き出しそうにそうになるほど大げさだが、理音の脚本の仕様だからこればかりは仕方ない。そんなわざとらしい台詞も真剣な顔で読み上げる辺り、ムツは本気のようだ。
「『こんな美しい方は見たことがない……本当に、私の口付けで目覚めるのだろうか……もし、そうなら……』――」
俺がうっすらと目を開けて様子を窺っていることには気がついていないらしいムツは、芝生に横たわった俺を見下ろし、真剣な表情で演技を続ける。数歩俺に歩み寄ると、少しの間俺を見つめた後で、そっと、俺の身体の横に膝をついた。
台本通りの動きだ。
なのに、何故か胸騒ぎがする。
「……『私は、彼女の全てが欲しい』」
クサくてやっていられないほどの台詞を吐くムツを見ていられなくて、俺はついにぎゅっと目を瞑ってしまった。
この台詞の後は――ついにアレがくる。
「…………」
左の頬に、柔らかな手の温もりを感じた。どくん、と信じられないほど大きな音を心臓が立てる。ムツに伝わってしまいそうで、俺は暴れ出した心臓を懸命に押さえつけた。
おかしい。
風が吹いて、俺の前髪がはらりと動く。
「――――」
ざわざわと、ハナミズキの木が風に葉を揺らせている音がする。その枝と葉の間から零れてくる光が時折瞼に映り、ゆらゆらと影の模様が揺らめいているのを俺に感じさせた。その間も、ムツの手は俺の頬を優しく撫で続けている。
まるで本当に女の顔でも撫でるような、もどかしい手つきだった。
息が苦しくなる。
呼吸ができない。
馬鹿、死んでしまうぞ。
「……。……」
俺の頬を撫でるムツの手は、無骨で角張っていて手のひらも硬く、模範的なまでに男の手なのに、あんまりその手つきが優しいから――息が詰まった。
顔に、木の影からもう一段階暗い影が落ちてくるのを感じる。
ムツが覗き込んできたのだろうか。
頬に集まった熱を認めたくなくて、もう一度うっすらと目を開いた。
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