* * *

 視聴覚室に隣接している放送室――本日演劇部の控室となっている部屋――に赴くと、そこではメグが眼鏡のない姿で台本を読んでいた。ばたん、と大きな音を立てて閉まったドアに見慣れたエセ優等生面は驚いたようにこちらを見ると、台本片手で勢いよく椅子に腰掛けた俺に話し掛けてくる。
「ユキ、随分早いね。まだ集合時間まで大分あるよ」
「付き合え」
「えっ!?」
 メグが心理的距離にして三十メートルくらい引いた。
 ……おい、どんな勘違いをした。
「劇の練習にだ。……台詞、まだちゃんと覚えられてるか自信がない。俺もメグの最終調整に付き合うから、協力してくれないか」
「あ……な、何だ、びっくり。もちろんいいよ」
 凄く真剣な顔で付き合えなんて言うから、ユキだっていうのにまさかとは思ったけど変な意味の方かと思っちゃったよ、とメグは言って、椅子から立ち上がる。俺は持っていたゴムで理音の命令により切らずにおいた髪を結わくと、同じように立ち上がる。
「でも、ユキ、一体どうしたんだい? いきなり練習しようだなんて……部活でもそんなこと滅多にないのに」
「おい。……たまにはこういうのもいいだろ。それに……本番の舞台で取り返しのつかないポカをやるのはごめんだからな」
 言うと、天然記念物の動物を生まれて初めて見たかのような目をして驚いてみせた後、メグは何故かわからないがとても嬉しそうな顔をした。
「そっか。じゃあ、やろう」
 けれど、そうして嬉しそうに笑った理由は言わず、メグはそう言って台本を開いたのだった。
 全く、メグほどいてくれてありがたい奴はいないね。
 俺は覚えた台詞を間違いなく暗唱できるか試すため、台本を椅子の上に放り出して善良な同級生に向かい合ったのだった。

 体育館での公演に出張っていた理音が演劇部の仲間を引き連れ放送室にやってきたのは、俺とメグが最後の練習を始めて三十分ほどが経過した頃だった。
「お待たせー、って誰も待ってないかー☆ ……と思ったら、え、メグみんとユキぴー!? まだ一時間半くらい時間あるぜ。早くねぇ?」
「あはは。どうせ行くところもないし、あったとしても劇のことが気になって楽しめないから早く来て練習してたんだよ。ね、ユキ?」
 ……同意を求めるな。
 視線を逸らした俺に、メグがくすりとおかしそうに笑い、理音がにやにやとムツにそっくりな笑みを浮かべてこう言ってくる。
「へーぇ、何だかんだで結構やる気なんじゃん、ユキぴーってばさ。あっくんが知ったらさぞ喜ぶだろうねぇ」
「死んでも言うな」
「どうして? 自分があれだけ文句つけてた劇に一生懸命になってるのを知られるのが恥ずかしい?」
 いいからそのムカつく笑いを引っ込めろ、ライオン野郎。
「まぁ、努力をしておくのは無駄じゃないんじゃなーい? 何せ、俺があっくん達の演技にケチをつけたら、あっくんはバレー部を強制退部で演劇部に転部することになるんだしさぁ」
 そういえば、話の発端はそこだったかな。
「やっぱり……自分のミスのせいであっくんが転部しちゃうのは嫌なのかな? かな、かな?」
「それはない」
「即答かよ。ムキになってさっさと答えるところがますます怪しい」
「黙れ」
 ついに我慢ならなくなった俺は、持っていた台本をオーバースローで理音に叩きつけた。寸でのところで俺の攻撃を避けた理音は「うわっ」と大げさに飛び退いて尚笑う。
「まぁいいや。んじゃー、早速だけど着替えてもらうからな! 衣装! そしてメイク!」
 ぱちん、と理音が指を鳴らすと、その後ろから衣装とメイク道具を一式持った担当が現れる。随分と無駄な演出だな……お前等、どんなスキルを身につけているんだ。
「で……こうなる訳か……」
 三十分後には、いつかの通し稽古でも変身した俺のお姫様姿が鏡に映っていた。
 ――本番まで、あと一時間。
 せめて最後に全体の流れを確認するつもりで、メイク担当に髪を弄られながら俺は台本を手に取る。

 あと四十五分。

 あと三十分。

 あと十五分。

 あと五分。

 そして、本番がやってきた。

 開演のベルが鳴り、視聴覚室を薄く照らし出していた照明が落とされ、世界が闇に包まれる。すかさず音響がバイオリン主体の滑らかなクラシック曲をフェードインさせ、それに理音の録音音声が乗った。
『昔、昔のお話です。あるところに、王様とお妃様がおられましたが、生憎お子様が一人もいらっしゃいませんでした。そのことを苦にされたお二人は、何とも言えない悲しみようで、湯治場へ行ったり、願掛けをしたり、聖地を巡礼したり、やれることなら何でもやってみたのですが――何一つご利益はありませんでした』
 客席は今頃、暗くてよく見えない舞台上(視聴覚室の簡易舞台は幕がないから、全て暗転で舞台転換する)がどうなっているのか、興味津々といった感じで身を乗り出している頃だろう。
 俺はそれを袖幕の中で想像しながら――いや、想像できてなんか全くいなかった。緊張で頭が真っ白になりそれどころじゃなかったんである。これだから人前に立つのは苦手なんだ。やり始めてしまえば何とかなるもんだと頭じゃわかっていても、この始まる前の緊張がもうもうもう。ああ、吐きそうだよぅ、みたいな。
「よっ、ユキ」
「ひぃっ!?」
 何の前触れもなく肩を叩かれたので飛びのいてしまった俺が、心臓を暴れさせながら振り返ると、そこには俺同じく第一幕には出番のないムツが衣装姿で立っている。メイクまでしっかりと施されたイケメン面だが、俺とは違ってどぎつくわざとらしく感じないから凄い。むしろ整った顔立ちをより際立てていて……
「ってお前、いきなり肩叩くな。何かと思っただろ」
「緊張してんの?」
「黙れ」
「手のひらに人って字を書いて飲め!」
「効くかんなもん」
 それにしたって、と言ってムツは俺を眺め回す。舐めまわされているかのような絡みつく視線に、つい一歩退いてしまった。
「この前の通し稽古の時も思ったけど……マジでよく似合ってんなぁ、ユキちゃんよ。うん、本当可愛い」
「冗談でも言うな。褒め言葉じゃないぞ」
「これなら俺も、本気で頑張れるってもんだぜ」
 は……?
 よくわからない台詞に俺が首をかしげていると、ムツは一度、一幕に出演する役者が全員スタンバイしている真っ暗な舞台上に視線をやり、それから視線の先を俺に戻して微笑んだ。
 甘い、微笑み。
 思わず息を呑む。
『けれども、ようやくのことでお妃様にはお子様ができ、そうして一人の女の子が生まれたのでした――』
 理音の録音音声が、最後のナレーションを発する。
 ムツは甘い微笑のまま、こう言って幕の奥へ引っ込んだ。
「じゃ、よろしく頼むぜ、相方」
 真剣な目つき。
 顔は笑っているのに、目の奥がどこまでもまっすぐで、よどみがなかった。
 暗転が明け、いよいよ劇が始まる。

 洗礼式のシーンから始まる劇は、もの凄いハイテンションでスタートした。
 式に参加している貴族達(演劇部員)の会話から始まり、そこへ国王・皇后両陛下が登場すると、何故か音響がアメリカ国歌を奏で始めた。選曲はどうせ理音だ。どうして昔のヨーロッパ(だよな?)が舞台なのに曲がアメリカなんかな。まぁ、客席はミスマッチな音楽に笑いを零していたので良しとする。
 洗礼の儀式が短く行なわれ、ほんのわずかな暗転の後に宴会へと場面は転換する。
 三人の妖精が紹介され、その度に役に当たっている奴は恭しく頭を下げ、国王様達に挨拶を述べていった。
 その最後に立ち上がったいい妖精役のメグは、
『国王・皇后両陛下に置かれましては、お嬢様ご誕生につきまして、さぞお喜びのことと存じます。わたくしからも、ささやかですがお祝いの言葉を述べさせていただきます。おめでとうございます』
 と、使い慣れている敬語で卒なく言うと頭を下げた。客席はわずかにざわついている。アレ、バレー部から飛び入りで出てる奴だろ? そんな声が俺の耳にも届いた気がしたが、メグはそれに動揺するでもなく、むしろ客席に向けて笑顔をプレゼントしていた。
 メグ……恐ろしい子……。(←これ言いたかった)
 シーンは妖精達が王女様に贈り物をするところに差し掛かり、
『王女様は世界一美しい方になられるでしょう――』
『夜鳴きうぐいすのように綺麗な歌声を持たれることでしょう――』
 前の二人の妖精がそう贈り物をし、最後にメグ演ずるいい妖精が贈り物をしようと口を開いた時だ。
 舞台が青い照明に包まれ、ごぉぉぉぉっ、と音響が鋭い風の音を流す。会場は一瞬どよめきに包まれ、それを打ち破って響いた声、
『頼もー!』
 理音のギャグセンスはいまいち理解し難いが、そんな台詞と共に舞台へ登場しスポットライトを当てられたのは悪い妖精たるミキである。赤と黒を主体とした毒々しい、それでいてどことなくセクシー路線な衣装に身を包み、長い髪を縦ロールにしたミキが、自分の身体ほどもある大きな杖を持ってつかつかと舞台の真ん中まで進み出ると、客席からは拍手が上がった。
 バックで流れている音楽は、何故かスターウォーズのダースベーダーのテーマ。……選曲おかしいだろ。
『あ、貴方は――貴方は、もう五十年も姿を現したことがないという――!』
『お亡くなりになったのではなかったのですか!?』
 彼、いやここでは「彼女」だが……彼女がもう長いこと姿を現していなかった悪い妖精であることを伝える理音のナレーションが入った後で、お妃と国王による台詞が入り、そしてミキが第二声を放つ。
『勝手に殺さないでいただきたいものですわねぇ……ねぇ、国王陛下?』
 衣装を翻しながら、ミキは客席にわずか背を向けたままそう言った。
 謎のオーラを放つ「彼女」に、恐る恐る国王役の演劇部員が台詞。
『い、いえ……何せ、塔の中に五十年以上も閉じこもっておいでと聞いておりましたから、このような人の集まる会はお嫌いかと……』
『そうねぇ、確かに、大勢の人間が集まる騒がしくて華やかな場所は嫌い。だけど――仲間はずれにされるのは、もぉぉぉぉっと大ッ嫌い!』
 そこでばっと客席へ振り返り――ミキは狂気めいた笑顔を見せた。毒気のあるその笑顔と台詞のド迫力に、客席がいい意味で更にどよめく。迫真の演技だった。
 すげーよ、ミキ。
 そうして、洗礼式に呼ばれなかった恨みから王女様に「紡錘に指を刺して死んでしまう」というプレゼントを叩きつけ、ミキは衣装を翻しながら舞台上を去っていった。ミキの出番はここで一旦終わりだ。舞台上はミキの発言にどよめき、そのどよめきを今度はメグが制する。
『王様もお妃様も、ご安心なさいませ。王女様へはまだ、わたくしからの贈り物が残っています。……お嬢様は、決して死ぬようなことはございません』
 本来なら穏やかな口調でこそあれど緊急事態に対しそれなりに真剣な物言いをするべきところなはずだが、にこにこと不真面目に微笑みながらなのでいまいち説得力に欠けるような気がするのは俺だけかな。
『どういう……ことですか?』
『なるほど、わたくしごときの力では、あの年長の方の言われたことを全て取り消すには足りませんが――しかし、お嬢様は紡錘に手を刺されても、亡くなりはいたしません。ただ、深い深い、眠りに落ちるだけのことです』
 舞台の中央へと歩み出て、今度はメグは客席に向かって台詞を言う。
 手に持っていた短い杖を、照明の中に掲げた。
『その眠りは百年の間続きますが、丁度百年経った時に、勇敢で心優しい一人の王子様がやって来て、彼の口付けで、王女様の眠りを覚ますことでしょう――』
 ……そうして第一幕は終結する。
 次の第二幕は俺の出番だ。暗転の間に舞台袖へと帰ってきたメグは、穏やかに如才なく微笑みながら、
「次はユキだね。……頑張って。始まっちゃえば意外と平気だよ」
 だろーな、メグ。

 裏方担当がセットの転換をし終わり、真っ暗な舞台の上に俺は進み出た。音響から理音の録音音声『そうしてそれから十五年の時が経ち――オーロラ様と名づけられた王女様は、妖精からの贈り物の通り、美しく、そして素敵な歌声をお持ちの方に成長なさいました』の後で、暗闇の中に流れてきたのは理音が作詞し作曲した歌だ。歌っているのは俺で、五日前に放送室で歌わされ録音したものである。あー、聞きたくない。が、こればっかりは仕方ない。
 致命的に下手くそではないはずだ。
『長い長い時を超えて 私達はきっとめぐり逢う
 長い長い夜を超えて そこには輝く夜明けがある
 いばらのつるが 闇の中をくぐって
 そうして 私と貴方の 長い長い距離を結ぶの
 いつかいつかきっと出逢う 私達はきっとめぐり逢う
 長い長い時を超えて 私達はきっと結ばれる――』
 歌が終わり、舞台に照明がぱっ! と灯った。
 舞台の中ほどに置かれた上品な佇まいの椅子に浅く腰掛けている俺が光の中に映し出されると、客席は微かにざわめいた。俺の豪奢な衣装に感心しているのか、男子校なのにお姫様が普通に出てきていることに驚いたのか、それとも俺の女装に対しての笑いを必死に堪えた故なのか、それはわからない。
 ただし、そうしてざわめきの中に置かれた俺はといえば完全に上がってしまい、城の中庭から景色を眺めている演技をしながら頭は何も考えちゃいなかった。
 何が始まっちゃえば意外と平気だ、メグの野郎!
 始まってからの方がつらいじゃねぇか!
 俺が考えられたのは、せいぜいその程度のことである。
『姫様、』
 そこへ、舞台の下手から登場したのは城の小間使いの役を当てられた演劇部員。
『そろそろ、王様とお妃様のご出立の時間でございます』
 それから、俺の初台詞。
『まぁ、もう? すぐに見送りに行きます』
 女言葉を喋らされている俺に、客席はやっぱり騒がしかった。
 ……拷問だ。やっぱりこれは拷問だ。
 とりあえず、台詞や所作を間違えてこのざわめきを一層大きくさせないように、今は努力するとしよう。
 小間使い役の後ろに続いて一旦舞台上を後にした俺は、そんなことをかろうじて考えていたとか、いなかったとか。

 国王とお妃が田舎の別荘へ出かけるシーンがあってから、ようやくのこと俺は平常心を取り戻すに至った。ここにくるまで随分と長かった気がする。一旦始めてしまえば、そこに「しばらくすれば」という修飾語句こそ必要であれど、確かに結構平気なんだな、メグよ。
 城の実質的一番の権力者になった俺演ずるオーロラ姫は、止める人間がいないのをいいことに、それから広い城の中を思う存分駆け回ることとなる。城のあちらこちらで働いている人達に姫がちょっかいを出すシーンがいくつか続いた後、最後にやってきたシーンがあの、紡錘に指を刺して倒れてしまうシーンだ。
『まぁ、なんて素敵なんでしょう! どんな風にするのですか? 貸してください、私にも上手くできるものなのかやってみたいのです』
『いいですとも。指など刺さぬよう、十分注意して、やってみて御覧なさい』
 しわがれた声でおばあさんの役を演じるミキを相手に、俺はそう台詞を言って紡錘を受け取り、そこでまたまた理音のナレーション、
『オーロラ姫様はとても活発な方で、ちょっとそそっかしい方でしたし、それに元々妖精の裁きで決められていたことでしたから――』
『ぁっ……』
 小さく声を漏らして、俺は数歩よろめいて床に膝をつき、そのままばったりと倒れた。
 俺が意識を失ったことを確認したミキ演ずるおばあさん……を演じている悪い妖精は、怪しげな高笑いを視聴覚室に響かせながらばっとおばあさんの衣装を投げ捨てて、
『ふん、何をどうあがいても無駄よ! 人間如きが、妖精の力に勝てる訳はないのだわっ』
 自分の娘を長い眠りにつかせまいと国中に紡錘の排除令を出した国王を全否定する台詞をいい、おーっほっほっほっほ、と高笑いを続けながら、ミキは舞台袖へと消えた。
 入れ替わりに小間使いが出てきて、倒れている俺に気がつくと、後は脚本通り城中はてんやわんやの大騒ぎである。
 出かけていた国王もお妃も騒ぎを聞きつけて帰ってきたが、妖精の定めであると状況を受け入れ、そしてそんな彼等をいい妖精・メグが一人一人眠らせていく。
 第二幕も無事に終了した。
 次の第三幕は、百年の時が経ち――ムツ演ずるフィリップ王子が意気揚々と登場するところから始まる。


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