* * *

 という訳で、気温と電力使用量のピークである午後二時頃、俺達一行は再度炎天下の町へと繰り出した。今度の自転車タンデムペアは撮影の都合、ムツと俺・メグとミキという組み合わせになったのだが、いよいよ出発する段になって、メグがそれまで俺が漕いでいた自転車のサドルを調整して大分上げていたのは全力で見なかったことにする。
「したら、まずは上り坂のシーンの調整からいくか。……メグ、しっかりついてこいよ! 飛ばすぜ!」
「お、お手柔らかに!」
 そんなやり取りがあってようやくのことチャリを漕ぎ出したかと思うと、ムツは数十メートルも行かない内に停まり、荷台に立ち乗りした俺を振り仰いで、
「もっとぎゅーっと掴まってくれていいよ? ユキ」
「誰がするか」
「ちぇー」
「ほら、メグに抜かされちまっただろうが。馬鹿なこと言ってないでちゃんと運転しろ」
 いつもと違い随分と低い位置にあるムツの茶色い頭を叩くと、ムツは「ちぇっ、ユキちゃんは本当にツンツンしてんなぁ」とぼやいてまた自転車を漕ぎ出した。俺が最低限肩だけを掴んでいるのが気に食わないらしい。俺だって不本意さ、こんなの。ただしお前と違って、どうして二人乗りをする相手がお前、しかもこうやってしがみつかなきゃいけないのかってところがな。
 ムツの頭越しに前を見ると、そこではメグの漕ぐ自転車の荷台に横向きに腰かけたミキが、長くて綺麗な栗色の髪を夏風に気持ち良さそうにたなびかせていた。白く細い腕が、優しくメグの胴に回されているのが見える。
 ……俺もミキとタンデムしてああいう風にしてもらいたかった。
「……飛ばすぞ、ユキ!」
「お、おわっ!?」
 急に勢いよくチャリを漕ぎ出したムツに振り落とされないように、慌てて俺はムツの肩を掴む手に力を込めたのだった。

 最初の撮影地に到着すると、ムツは弧線橋の西側のふもと・歩道上に自転車を停めるよう、前を走っていたメグに指示を出し、自分もメグがチャリを停めたすぐ傍に停車した。一応は歩道の端に停めたものの、どうにも往来の妨げになっているような気がして申し訳ない。が、全力で気にしないことにしよう。どうせそれをムツに言ったって聞きゃあしないんだからな。
「あっちが東の方角だよな? ってーことは、自転車をこっちからこう、」
 一旦指で坂の頂上の方を指し示してから、ムツはその指を俺達の今いる坂のふもとからもう一度坂の上へと動かし、
「走らせていく、と。……坂を上ってる最中のカメラアングルは横からチャリに並走させる感じで、そいで途中カットして、坂を上り切るシーンを今度は正面から撮る。それからもう一回カットして、次に坂の上で停まっているチャリと、それ越しに見える朝焼けを後ろから撮る。こんな感じだな」
 と言って一人満足したような表情を浮かべた。近くにある女子校の敷地内の雑木林から騒々しく聞こえてくる蝉の声、そして容赦なく照りつける真夏の太陽、プラスムツ。……この世は俺達に厳しい。蝉も太陽もついでにムツも、バファ●ンくらいの優しさは持つべきだ。
「言葉で説明されたって、お前の雑い説明じゃわからん。図にしろ」
「えー?」
 額に浮いた汗を手の甲で拭いながら俺が言うと、監督兼役者兼絵コンテ係のムツは肩から下げていた鞄の中身の内、ルーズリーフと筆記用具をしぶしぶといった顔をしながら取り出した。俺のチャリのかごを台にして絵コンテを描き始める。……さっきの説明も雑だったが、残念なことに絵コンテも雑だ。棒人間とその他ごちゃごちゃとした線とが紙の上でのたくっていて、これだと口で説明されたのと大して変わらないかも知れない。
「ほいできた。これなら言葉で説明しただけじゃ理解できないお粗末な脳みそしか持ってないユキでも、よぉぉぉくわかるだろ」
「……」
 完成したらしい絵コンテを受け取りながら、俺は軽く顔をしかめただけで何も言い返さなかった。もちろん内心じゃこう思っていたけどな――否、お粗末なのは俺の脳みそじゃなく、お前の絵心だ、って。
 しかしながら、どんなに拙くても絵が与えてくれる視覚効果というものは素晴らしいものであり、ただ口で説明されるよりはよっぽど具体的に、完成した映像のイメージを掴むことができた。一通り目を通した後で絵コンテをメグとミキに渡して、俺はそこで奇怪なポーズを取っているムツを振り返り尋ねる。
「まぁ、大体はわかったぞ。そうしたらどうするんだ? 試し撮りでもするか」
「おぅよ!」
 何だその自由の女神のなり損ない的なポーズは、とか思ったらそうなってしまった棒読みでの俺の問いかけに、ムツはにぃっと笑うと元気よくうなずく。持参したデジタルハンディカムを鞄の中から取り出し、絵コンテを見つめて小首をかしげていたメグにぽんっと手渡した。メグの隣で同じように絵コンテを覗き込んでいたミキが、メグの手中へと移ったカメラを見て無駄に大きなその目をぱちくりと瞬かせる。
「使い方はさっき電車の中で説明したよな? ひとまずカメラアングルの練習ってことで、これから俺とユキが一通りやってみるから、試しに撮ってくれ」
「えぇえーっ、いきなりかよっ? ムツの説明は雑いから、俺、カメラの使い方全然わかんなかったんだけど――」
「メグに聞け!」
 抗議の声を上げたミキに右手の人差し指を突きつけ、一方的にそう言い放ったかと思うと、ムツは停めてあった自転車二台の内一台のスタンドを外してひらりと跨った。それから坂の上に向かって勢いよく立ち漕ぎして去っていく。
 後には俺とミキと、
「……僕もムツの説明を一回聞いただけじゃわかんなかったんだけどな」
 ハンディカムを手に困った顔をし、そう一言呟いたメグとが残された。ドンマイだ、メグ。形のよい眉をハの字にした優等生面と目が合い、俺は肩をすくめてみせた。
「お前なら機械に強いから勘でも何とかなるだろ。悪いけど色々試してみて、それからミキに使い方教えてやってくれ。……その結果壊しちまっても何の問題も発生しねぇさ。教え方の下手なムツが悪い」
 言ってから再び坂の向こうへと目をやる。少し長めの坂の頂上に辿り着いたムツは、そこで俺達に背を向けたまま、しばらくチャリに跨った状態で坂の向こうの景色を眺めているようだった。
 ――嘘みたいに青い空と、そこに湧き上がる真っ白な雲とのコントラストが目に眩しい。七分丈のカーキ色をしたカーゴパンツにダメージ加工の施された白いデザインTシャツを着て、その上からインディゴ染めの空色が爽やかな七分袖ショートジャケットを、その袖をロールアップして羽織っているムツ。シルバーに塗装されている俺の自転車が、太陽の光をわずかに反射している。
 少し遠くから聞こえてくる蝉の鳴き声と、すぐ近くを往来する車の音。排気ガスが熱せられたアスファルトの上いっぱいに広がって、そこを少しばかり涼しい夏風が緩く吹きぬけ、坂を上っていった。
 夏だ。
 俺はまたも額に浮いた汗を手の甲でぬぐってから、メグとミキ、どちらへともなく言った。
「あいつには何言ったって無駄だよ。だったらあいつにも、俺達についてとやかく言わせたりはしないさ」

 * * *

 その後、坂の上から戻ってきたムツに命じられるまま俺がチャリの荷台に跨ったところで、いよいよ撮影の練習が始まったかと思うと、それから一時間半超もの間それが延々と続けられた。
 試行錯誤の末何とか撮影のスキルを身につけたらしいメグとミキをもう一台のチャリにスタンバイさせ、被写体たるムツ&俺の自転車に並走させて撮影の練習をしていく訳だが、いざスタートする段になるとムツが「よっし、そいじゃあいっちょ、よぅい――アクション!」なんて叫んで自転車を急発進させるもんだから、俺はその度に慌ててムツのショートジャケットにしがみつかなければならなかった。毎度思うが、ムツの運転には優しさが足りない。こいつが運転免許をとっても同乗は丁重にお断わりしようとこの時俺は決心した。
 自転車の並走で坂道を上ったり下りたり。道行く人には極めて邪魔だったと思うのだが、いかがなものだろうか。
 もっともムツはそういうことを気にすることなんか半永世的にありえない滅茶苦茶図太い神経をしているので、忠告したところで無駄だったろうが、ひとまず俺は黙ったままでいた。ムツに対して言った言葉があるとすれば、それは「車輪の唄」の歌詞の中にある通りの「もうちょっと、あと少し」くらいなものさ。ムツと知り合ってからというもの、俺は黙っているというスキルを身につけた。
「お疲れぃ! 今日はこのくらいにしておこう!」
 そんなだから、というムツの大変ありがたき一言を契機として、撮影の予行演習が終了を迎えた時には、全員が全員とも汗だくだ。炎天下の坂道を幾度となく上り下りすることになったんだから当然だな――そんな訳で、これ以上一刻たりともこの夏空の下にはいられないとばかりに早々に駅前へととって返したのだった。
 早い内に冷房の効いた建物内に落ち着こうと、チャリによる全力疾走を俺とメグにお命じになったムツだったが、奴は今回メグの漕ぐ自転車の荷台をご所望になり、結果嬉しいことにミキが俺の後ろに来ることになった。
 が、素直に喜んでいいのかは非常に迷うね。何せミキは汗でべたついた服や肌が触れ合うことを嫌がり、荷台に立ち乗りになって俺の肩を掴むだけにとどまったのだから。
 まぁ、今から思えばそれで良かったのかも知れない。もしミキと青春タンデムして身体が密着でもしていたら、いかにミキが同性だとわかっていようとも確実に理性が崩壊していただろうからな。この際はっきり言おう。ミキは俺が、例え同性の男だろうと恋仲になってもいいと本気で思った唯一の人間だ。そんでもって実際、(色々な裏事情はあったにせよ)一時は交際していた訳だしな。
 ……話が盛大に逸れたな。
 ともあれ、そんな風にして俺とミキがタンデムしている少し前を行く、漕ぎ手・メグのチャリの荷台に横向きに腰掛けたムツは、メグがさも暑そうにしている後ろでビデオカメラを手に、練習で撮った映像を見てけらけら笑いながらあーだこーだ言って批評をしていた。それを聞き流しながらチャリを漕いでいたメグが一回だけ「……チッ」とマジもんの舌打ちをしたのを聞いてしまった時には、軽く冷や汗が出たね。日頃温厚が起これば怖いっていうセオリーを、ムツはもう少し真剣に考えるべきだ。

 そうして日の傾いた中をできる限りの全力で――坂を何度も上り下りし疲れた後なので、その全力がどの程度なのかは推して知るべしだが――駅前へと引き返した俺達は、自転車二台を駐輪場に停めるとすぐ近くのミスタードーナツに避難した。
 涼しい店内でドーナツとドリンクをそれぞれ一つずつ選んだ俺達は、店内一番奥の席を占拠するなり各自思い思いに天井を仰いだ。物凄く涼しい。ここは天国ですか?
「やー、みんなお疲れ! これで本番の撮影を準備万端で迎えられるな。さ、ドーナツ食って打ち上げといこうぜ」
 まだ練習をしただけで、ちゃんとした本番の映像はワンシーンだって撮れていないというのに、いい気なもんだ。
 かちゃかちゃと軽くグラスをぶつけ合った後で、俺達はそれぞれがオーダーしたドリンクで喉を潤し、ほぼ同時に浅くため息をついてから、各々のドーナツを手にとって食し出した。ムツはゴールデンチョコレート、メグはオールドファッション、ミキはエンゼルフレンチで、俺はいつものダブルチョコレートだ。
 ドーナツの嘘みたいに甘い味が口の中に広がる。美味いね。ミスドのドーナツも、いつ食ったって美味いよな。
「ところでさー。ゴールデンチョコレートって、このそぼろみたいなのが黄色だからゴールデンなんだよな?」
 またどうでもよさそうな話をとんでもないタイミングで始めるな、お前は。なぁ、ムツよ。
「この黄色い色って何の色素? いずれにせよゴールデンじゃないよな、これを金色だと言ったら玉子焼きが黄金の塊になっちゃうぜ。純金積み立てみたいに銀行に貯蓄されちゃったりして。うひひ」
 じゃあ何だ、ドーナツにマジもんの金粉でも貼れってのか。
「その方がいいな。まぁ俺、多分くっついてるのがそぼろじゃなくて金箔になったら食わないだろうけど」
「何のためにクランチを金粉に変えるんだよ、じゃあ……」
「全部金箔引っぺがしてテイクアウトする」
「持ち帰って何するつもりだ」
「それなりに溜まったところで換金☆ 俺様のポケットマネーとしてへそくりの隠し場所に……」
「やっぱりな! お前ならそう言うと思ったよ!」
 と、この他にもムツは、自分の飲んでいるメロンソーダをまじまじと見つめて「メロンソーダってさ、よくよく考えるとこの緑色以外にメロン要素ないよな?」だの、「俺はギャンブルと煙草と薬物にだけは絶対手を出さないことに決めてんだ」とか、「俺の血液型、B型以外にありえないだろ。逆にB以外だったら何だよってな」とか、何の脈絡もない話を、俺やメグやミキが適当に相槌を入れるのをいいことにべらべらと話し続けた。よくそんなに次から次へと話すことがあるもんだな、と俺はいつも感心してしまう。もちろん、だからってこいつのようになりたいかといえば、そんなことは全くないけど。
 そうしている内に俺達はぼちぼちドーナツを食い終わった。日も大分西へ傾いてきた頃、
「よぅし。明日の話をするぞ、野郎共」
 今更感ばりばりの台詞を言い放ちながら、ムツは手についたゴールデンチョコレートのクランチを払った。
「明日は夕方から南林間で一通りの試し取りをした後で、ユキんちに一泊。そんで翌朝日の出の時間前に撮影開始して、全体を一気に撮り溜める! ……基本的に一発勝負だからな、撮り直しはないと思ってびしっと気合入れていけよ! ゆるゆるしてっとカンチョーすっからな」
 夏の日の出時刻は早い、小田急線の始発に乗ってぎりぎり間に合わないような時間だ。だったら確かに、前日からロケ地に留まって翌朝に備えるしかないだろうな。
「来週からはまた部活が始まっちまうから、明日・明後日とあとどっか一日くらいしか撮影はできないよな。そんで部活の合間を縫って編集して……だと、やっぱスケジュール的にはぎりぎりか。うん、明後日の朝の一発が勝負だ」
 とか何とかいうムツの演説を軽く聞き流しながら、俺は今日家に帰ってから、明日の夜突然友達を泊めなければならなくなった事情をどう説明して母親を言いくるめるかについて考えていた。
 来週か……今の時期は中等バレー部の全国大会直前で、部の鬼監督は全国行きチームの指導にかかりっきり、それ以外の部員は自由参加ということになっている。高等バレー部のインハイが終わったばかりだというのにご苦労なことだ。
 けれど、それも今週いっぱいのこと。
 来週からは一応形だけでも行かなくちゃなるまい。もちろん、俺だけじゃなく、ムツもメグもミキも、四人揃ってな。
 だとすると、それまでに宿題を一通り片付けちまわないと……
「んじゃま、今日はこれで解散っ! お疲れしたーっ! 明日も死ぬ気で頑張ろーっ! おーっ!」
 一人で盛り上がっているムツにやる気のない拍手を残りの俺達三人が返したところで、その日はようやっとお開きになった。否、なりかけた。
 つまりお開きにならなかったということだが。
「待ちなよ、ムツ。お前はまだ終わってないだろ?」
 アレだけ坂道をチャリで上り下り繰り返しておいてどうしてそんなに元気が残っているんだか、勢いよく椅子から立ち上がったムツを、そう言って制止したのはメグだった。
 ……何だって、まだ終わってない? 何が。
「……そうだった」
 ムツも元気に立ち上がったそのままの姿勢で一時停止し、苦い表情を浮かべる。だから、何がだよ。何が終わってないって言うんだ。
 今の時点で事情を把握しているのはどうやらメグとムツだけのようで、ふと隣を見るとミキも口の周りについたエンゼルフレンチのクリームをナプキンで拭きながらきょとんとした顔をしている。よかった、俺だけが蚊帳の外だったんじゃなくて。
「……ユキ、あのさ」
 再度椅子に腰を落ち着けたムツは、どことなく気まずそうな表情を――そのハンサムな顔に似合いもしないことに――浮かべて、おずおずとそう俺に切り出した。
 それは、今日という日はようやく終わりだとほっとしていた俺の心の平穏を台無しにする一言だった。

「……数学の宿題……教えて欲しいんだけど……」


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