* * *

 という訳で、時刻は夕方六時過ぎ。
 俺の自室にて。
「しっかし、いつ来ても思うけど、お前の部屋って本だらけだよなぁ」
 俺が貸したジャージを着て首からバスタオルを引っさげたスタイルのムツは、濡れた髪をがしがしと掻き回しながら、本棚を端から端まで眺めて感慨深そうに言う。
 が、断言しよう。こいつは何にも考えちゃいない。その証拠に、人の家に上がり込むなりシャワーをご所望になった手前勝手且つはた迷惑なこの友人は、俺の出してきた平机の上に広げた数学の問題集を見事に無視している。ノートを見ようともしない。お前は何をしに俺んちに来たのだ。
「しかも、見事にライトノベルばっかり。オタク丸出しだな」
 ようやくのこと俺を振り返ると、ムツはにっしっしと見ていて大変神経の逆立つ笑いをその顔に浮かべた。俺は浅くため息をつく。
「別にラノベはオタクが読むものと決まった訳じゃないだろ。日本全国のラノベファンに土下座して謝れや」
 だし、ムツが想像しているのであろうオタクが好き好んで読むラノベっていうのは、大体がハーレム状態のウハウハなラブコメだと相場が決まっている。いわゆる「萌え系」ってヤツだ。残念ながら俺は萌えを前面に出したラノベにはそこまで興味がない。本棚に並んでいるのもストーリー重視のファンタジー小説や学園モノばかりだ。
「それにしたってラノベばっかり何冊持ってるんだよ? この本棚だけじゃないだろ? 収まり切ってないのが机の上に積み上がってるしよ」
「ざっと百冊以上はあると思うけど……数えたことがないからわからないな。長いヤツはシリーズで十冊以上出てるから、全部集めるとそのくらいになっちまうんだよ」
 ちなみに本棚に収まり切らなかった残りはクローゼットの中にまとめて収納してある。
 俺がそう言うと、ムツは「うっそ、マジで?」と驚いたように言うが早いか、床を這っていって許可も取らずにいきなりクローゼットを開け放った。何しやがるんだ。プライバシーの侵害だろ。
「うわーっ、おいおい、本棚に入ってるよりたくさんあるじゃねぇかよ、こっち! ……ん? しかも何コレ。わ、わわわっ! やっべ、ユキちゃんのエロ本発見!」
「ばっ……てめっ、何勝手に広げてやがる!」
 あっさりと文庫本が大量に詰まった収納ケースを発見したムツは、更に余計なものまで引っ張り出してくれやがった。やめろ馬鹿、それはうちの両親ですら知らない秘蔵のブツなんだぞ!
「し、しかも結構過激……うわ……うわわっ。これは親御さんが見たら泣いちゃうよ! すっげ……何この子、黒髪ツインテールで白いフリフリエプロンで……い、いや! これ以上は俺の口からは……!」
「言うな言うな! 馬鹿っ、返せ馬鹿!」
 秘蔵エロ本に視線は釘付けのまま、ひょいひょいと器用に俺の手を避けるムツ。
「滅茶苦茶マニアックだな……何、ユキってこういうのが好きなん? まぁ、確かにコレはいい感じに抜けちゃいそうだけど――おぅわっ!? 裸ニーハイ!」
「わあぁぁぁもうやめろ! 悪かった! 俺が悪かった、だから返しなさい、返してっ!」
「今度貸して!」
「わかった貸すから! 貸してやるからひとまず返せ! ……返してくださいっ!」
 最終的には泣きが入った俺だった。格好悪い。
 しかも、その後もムツは嫌がらせとしか思えないくらい内容を言葉で描写しながらページを捲り続けたので、俺としてはいつか家族に聞かれるんじゃないかと肝を冷やすことになった。ひょっとすると聞かれたかも知れない。翌日、ただでさえ冷たい俺を見る妹の視線の温度が更に二十度くらい下がっていたからな。
 黄昏時の乱闘騒ぎ。とにもかくにも、やっとの思いでムツからエロ本を取り返した時には、折角シャワーを浴びたというのに汗びっしょりだ。
「ていうかユキ、何でこんなガチンコ十八禁ブツなんて持ってるの? 普通俺達の歳じゃ買えないべ、こんなん」
「高校二年生のおませな従兄弟の兄ちゃんからもらったんだよ……」
 肩で息をしながら何とか答える。コレを見られた今、何か色々と終わった気がする。俺のキャライメージとか、好感度とか、人生とか。
「男ならコレくらい勉強しておけって言われてな……男子校に行くなら尚更、将来のために耐性を作っておけと……」
「おいおい、何だよその素敵な兄ちゃん? 今度紹介してくれ」
「お前が姉ちゃん紹介してくれるって言うんならな。考えてやるよ」
 ていうか、これを最初に入手した従兄弟の兄ちゃんもまだ十七歳なのだが、そこに突っ込みはなしということで。
 色んなことに興味津々なお年頃の男の子なのだ、俺達は。
「あー……つーか、一ついいか、ムツ」
「うん? 何だ。あ、交換で俺のエロ本今度貸し――」
「馬鹿野郎。……てめーは何しに俺んちに来たんだよッ!」
 急に顔を近づけてきたムツの額にデコピンをお見舞いした。
 痛ぇー! と悲鳴を上げるムツ。
「ぁあ? 俺のエロ本探すために来たんじゃないだろうが! 最初の目的は見失うなよ、初志は貫徹しろよ、こういうのを本末転倒っつーんだド阿呆!」
「うぅ……何だよ……ユキだって物わかりの悪い俺に数学教えるよりは、こうやってエロ本トークしてた方が楽しいだろ?」
「ちっとも楽しくねぇ!」
「それとも何だ? ユキは実利があった方がいいの? 俺とエロトークじゃ満足できないの? だったら抜いてあげても――」
「時間帯を考えろ! まだ七時にもなってないぞ!」
 夜中だったらいいかっていうと全然そうじゃないけど!
 ……と、こんな馬鹿なやり取りを繰り広げているのは俺とムツだけである。メグとミキなら数十分前に南林間駅前でとっくに別れた。二人揃って仲良く手なんか振ってやがったっけな。ミキはいつもの通りの癒される笑顔で、メグはどことなく意味深長な微笑で。
 俺とムツはそれぞれ自転車に乗って駅前を後にし、数学の宿題と格闘するべく俺の家へとやってきたはいいものの、じゃあ早速始めようかとなったところで突如ムツがシャワーを浴びたいと言い出し、挙句の果ては可愛いユキちゃん一緒に浴びようとか訳のわからぬ我侭を言い出したムツをどうにか単独風呂場に放り込んで、その後で俺も軽く汗を流し、やれやれやっと始められると問題集を開いたところでまたもムツがまるで関係のないラノベトークを振ってきたというのが今までの流れだ、とかって説明する文章が物凄く長くてええい面倒くさい。以下略。
「第一、何でお前に数学なんか教えなくちゃならないんだよ……宿題なら、適当に解答写しておけばそれで済むだろうが」
「俺だってそう思ってたよ。だけどメグが、写してるだけじゃ駄目だって……ちゃんと解けるようにならないと駄目だって、そう言うから……俺だって仕方なく……」
 ムツの口がアヒルになる。
 俺だってできるならアヒル口したい気分だ。やったって様にならないだろうからやらないけどな。
「それにしたって、メグに教えてもらえばいいだろ。何で頼まなかったんだ」
「頼んだよ! 頼んだけど断わられたんだって! 『数学なら、僕よりユキの方が教え方上手いからユキに聞きなよ』とか爽やか笑顔で言いやがったんだ!」
 メグ……。
 メグ、お前は何を企んでいるんだ? どんな意図があるんだか知らんが、俺は次にお前に会った時にカッターナイフを振り翳さない自信がないよ。
「もういい……もういいわかった。俺ももう十三歳だからな、少しは紳士の振る舞いってヤツをするべきだ。メグに頼めなかったことについてはとやかく言わない。ああわかったよ、教えてやるさ、教えてやろうじゃないか、数学」
「えー、数学なんかつまんない。ユキ嬢ちゃん、俺とエロ本読もうよ」
「言ってもう一冊さりげなく出してくるんじゃない! さっさと問題集の前に座れっ、カス!」
 そう言ってムツの頭を容赦なくノートで引っぱたいた俺の態度は、紳士のそれからは程遠かった。
 ……まぁ、長くなっちまったがそんな感じでどうにかこうにか数学の問題集に取り掛かった時には、早くも六時半を回っていた。教えられる側のムツは最初全く集中力に欠けており、事あるごとに俺の特別講義から逃れようと(主に俺の秘蔵エロ本を持ち出すことによって)したので、実際ちゃんと宿題がはかどってきたのは七時も大分過ぎてからのことだ。
「いいか、いくぞ。……2(x+1)-3(x-5)=7。まずは括弧を外すから、2を括弧の中のxと1にかけて、この-3をxと-5にかける。やってみ?」
「えーっと……2x+2、-3x+15……イコール、7と……」
「それからどうするんだっけ?」
「うー……同類項を纏める……だから、-x+17、イコール7、と」
「そうだ。そうしたら、左辺の17を? どうするんだった?」
「……右辺に移項する、だっけ。えっと、-x=24……」
「馬鹿。移項したら符号が逆になるんだ。+17じゃなくて、-17だろ。……そういう間違いをしないように、ちゃんと途中式書けっつってんだ」
「……-x=7-17。で、-x=-10、だから、えっと、-1の逆数を両辺にかけて……x=10。合ってる?」
「ん。できただろ」
「ふひぃ」
 俺と全く同じ授業を受けていたはずなのに、どうしてこんなにも理解に差があるんだか不思議だ。ムツは数学の基礎の基礎が全くわかっていなかった。道理で方程式はおろか、初歩の文字式すら解けない訳だ。
「方程式でやることは決まってるんだよ。まずは括弧を外して計算する。次に同類項を纏める。移項して両辺にxの係数の逆数をかける。……必要なスキルはたったこれだけなんだ。お前は要点無視して行き当たりばったりに考えすぎ」
「うぅ」
「ほれ、休んでる暇ないぞ。次だ次、2(x+1)=3x+4」
「うへー……両辺にxがある……」
「xがあるのが両辺だろうが片方だろうがやることは変わらん。教えた通りにやってみろ」
「んむむ……まずは括弧を外すから、2x+2、……」
 こんなやり取りが延々一時間は続いた。途中、見かねた母親が夕食を部屋に運んできてくれたりもして、ムツが恐縮です〜なんつって似合いもせず頭なんか下げていたのは変な気分だったが、それよりも何よりも、普段俺に対する態度がそっけない母親がムツに対してはいえいえごゆっくり〜なんてニマニマしてやがったのがムカついた。結局世の中顔か。オカンよ、あんたもイケメンなら何だっていいのか。
 夕食は麻婆茄子だった。
 けれど、xだのyだのという話をムツとしながらの食事は、残念ながらあまり味がわからなかった。
「……3x-9+5=5x-2、-2x=2、x=-1……んふふ。だけど何か、ちょっと嬉しいな」
 やっと一人でも一次方程式が解けるようになってきた頃、ムツがへらっと笑みを零してそんなことを言った。
「嬉しいって何が」
「いや、こうやって宿題やってんのが」
 いきなり何を言い出すかと思えば、である。一体何だ、お前は今日のコレをきっかけに勉学に目覚めたというのか。だとすると天変地異の前触れだぞ。
「そーじゃなくてさ。こうやってっていうのは、その、ユキと二人でってことだよ」
 ノートにシャーペンを走らせながら言うムツ。
「……はぁん?」
「いや、さ。何か久しぶりじゃね? ユキと俺だけってゆーの。ほら、ここ最近はずっと、メグとミキが一緒だったじゃん」
 久しぶりも何も、俺とお前だけなんてそんな時はなかったんじゃないか? 最近どころか入学してからずっと、ほとんどメグとミキも一緒だったと思うぞ。
「そんなことないだろ。入学してしばらくは俺達二人だけだったじゃん」
「……ほんの数日だけじゃねぇか、それって。そんな改めて取り沙汰すほどじゃないだろ」
「そーだけどっ。……んー、だけど、そうじゃないんだよ。何て言ったらいいのかわかんないけどっ……とにかく何か、こういうことって久しぶりな気がするんだよっ」
 そこで一度シャーペンの動きを止め、ムツは不機嫌そうに口を尖らせた。
「わっかんないかなぁ……まぁいいけど……」
 そう言っておきながらまだ納得のいかないような表情で、シャーペンでぽりぽりと頭を掻くムツ。ひょっとしたら慣れない勉強、しかも苦手な数学なんぞをずっとやっていたせいで疲れてきたのかもな。
「ちょっと休むか、ムツ?」
「……いい。あとちょっとでこのページ全部解き終わるし」
 いつもなら一も二もなく飛びつくだろう俺からの提案に、こんな時ばかりムツは首を左右に振って、黙々と問題集の方程式を解き続けた。
 俺はそうしてムツが問題を解く様子をしばらく眺めていたが、その内飽きた。窓の外を見ると、いつの間にやらすっかり夜の帳が下りていて、群青の空にいくつか星が瞬き始めていた。


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