* * *

 ムツの言う「あとちょっと」というのはざっと三十分のことだったらしく、「やーっと終わったぜ! ユキありがとう! これで数学は何とか一人でもできそうだ!」とムツが歓声を上げた時には既に八時半を回っていた。
 別に、普段部活をやっているとこの時間に外を出歩いているなんて普通のことなのだが、だからって帰るのに早い時間ではない。終えて早々ムツは帰宅することになったのだが、この熱帯夜の中を延々南林間駅まで歩いていくと言うので、見かねた俺はムツを自転車で駅まで送ってやることにした。
 ……いや、後から考えると自転車を貸してやって、駅前の駐輪場に停めて帰ってもらえばよかったんだけどな。けどまぁ、当時の俺は何故かその考えに至らなかった。何故か? ……何でだろうな。折角シャワー浴びたのに、駅まで自転車漕いだらまた汗だくになっちまうだろとか、そんなことを考えていたような気がする。忘れたよ、そんなこと。きっと大したことじゃなかったんだろ。
 とにかく俺は、マイ自転車の荷台にムツを乗っけて、薄暗い住宅地の中の道を駅へと向かった。
「うん。風があれば涼しいんだな」
「それって、裏を返せば涼しくないってことだろ」
 なんて、特に意味のない会話を前と後ろで交わしながら行く駅までの道のりが、その時は無駄に長かったような気がする。
 俺の貸したジャージから元の私服に着替え直した後ろのムツは、荷台に横座りで気安く腰掛け、俺の腰にそっと腕を回している。昼間、PV撮影の時とは丁度逆のタンデムだ。俺は急ぐべきはずのところを、変にゆっくりとペダルを漕いでいた。
 少し気味悪ささえ感じるくらい静かな住宅地で、俺の漕ぐ自転車のチェーンが回る音が微かに空気を震わせる。
 たまに夜空を見上げれば、蠍座と夏の大三角が仲良くそれぞれの誇る一等星を輝かせていた。
 妙に静かな夜だった。
「んふふ」
 時折ムツが変な含みのある笑いを零した。
「何がおかしい」
 俺が尋ねると、ムツは俺の胴に回した腕に少々力を込めるようにし、上半身を傾けて俺の背に自らの頭を預ける。
 寄りかかられたそこから、じわりと熱が広がったが、特別不快ではなかった。
「んーん。別に。何か、この世界に俺とユキしかいないみたいだなぁ、って思っただけ」
「……『車輪の唄』に影響されすぎだろ、お前」
 ――町はとても静か過ぎて――
 ――「世界中に二人だけみたいだね」と小さくこぼした――
「ひょっとしていつかそんなことになったら、ユキ、どうする?」
「んな状況、積極的に考えたくはねぇな……お前と俺だろ? 男同士だし、産めよ増やせよって訳にもいかないからな」
「ははは。アダムとイブにはなれませんってか」
「お前は禁断の果実を食べても目は開けなさそうだしさ」
 お互い、実にどうでもいいとしか思えないことばかりを喋る。
 遠く、駅前通りのある南側から、時々車のエンジン音がわずかに届いた。
「つーかそもそも、ひょっとしていつかそんなことになるとも思わん」
「へぇ? そう?」
「人類が俺とお前二人だけになっちまう前に、きっとお前が何か行動するだろ。少なくとも俺達の他にもメグとミキくらいは生き残るように計らいそうだ」
「おおぅ? ユキちゃんってば、随分とまた俺様に信頼を寄せてくれちゃってるじゃないですか」
「信頼してるんじゃねぇよ。お前みたいな危険人物筆頭なら、そのくらいのことは余裕でやってくれそうだって憂慮してるんだ」
「むっふっふ。そいじゃあ、俺様は頑張ってそんなユキちゃんの期待に応えなくっちゃな」
 相変わらず風はないが、自転車で走っていれば微かに空気の動きを感じることができた。
 けれど、その風以上に、Tシャツ越しに感じるムツの体温の方が現実的だった。

「じゃ、ユキ、」
 そうこうしている内に駅に着いた。まだ学生は夏休み真っ最中の八月後半であり、また帰宅ラッシュはとっくの当に終わった頃合、駅前を歩く人の姿はまばらだ。各駅停車と思しき下り電車が丁度駅を出て行ったところらしく、駅近くの踏切の鳴る音が響いてきていた。
「ありがとな、送ってくれて」
 南林間駅西口のロータリーのところでムツを降ろし、俺も一旦スタンドを立ててチャリから降りた。どうしてそうしたんだかは覚えていない。
「お休み。ま、例のエロ本さんで今日もせっせと抜き抜きしてください」
「うっせ!」
 まだ引っ張るか、お前は。
 駅前ならではの光はあるもののやはり薄暗い駅前で、いつもの馬鹿げた応酬を繰り広げる。
「でもマジな話、ちゃんと抜いとかないと身体に悪いって言うぜ?」
「……頼むから、公共の場所でそういう話を平然としないでくれ」
「えっへっへー、ユキ嬢ちゃんってば意外とストイックですねぇ」
「お前が開けっぴろげすぎるんだ」
「へいへい。んじゃま、お休みぃ。ばいび」
 何の意味があるのかわからないことを話した後で、ムツはひらりと手を翻してから、俺に背を向け改札へと向かう階段の方へと歩き出す。迷いのない足取りだった。またどうせ明日も会うんだからと思っているからだろうか。
 それまで無風だったところを、その時一瞬だけ温い風が、俺の薄く汗で濡れた肌を撫でた。
 ムツの色素の薄い髪が、その風にわずかに揺れる。た、ように見えた。ひょっとすると気のせいだったかも知れないが、今となってはよく思い出せない。
 踏切の音が途切れる。
 サンダルの足が階段の一段目にかかった。
「ムツ!」
 その時、俺はムツを呼び止めた。
 呼び止めてから変な気持ちになった。どうしてムツを呼び止めたんだか、はっきりと理由がわからなかったからだ。
 ただ――ただ、何となく。
 ただ何となく、ムツをここで呼び止めなければならないような気が、した。
「……んぁ?」
 ムツは振り返った。
 辺りが薄暗い上に駅の照明で丁度逆光だから見えにくいが、不思議そうな顔をして俺を見ていた。そりゃそうだ。俺にムツを呼び止める理由がない以上に、ムツには俺に呼び止められる理由がないだろうからな。
 そうだろうに。
 それでも。
 ムツは俺を振り返った。
「……」
 俺は言葉に迷い、押し黙った。一体どれくらいの間そうしていただろうか。
 何と言ったものか迷って、困惑して、結局は結論も出ないままに、
「……また明日な!」
 と、いつの間にやらそう言っていた。
 滅茶苦茶ありふれた言葉だった。
 だからこそ、何でこんな定型句みたいな台詞が口から飛び出してきたのか、訳がわからなかった。
「――」
 そんな俺の一言に、ムツは案の定、酷く驚いた顔をしていた。
 それは俺が初めて見るムツの表情だった。
 急に呼び止められて困惑しているのでも、言われた内容の真意を推し量ろうとしているのでもない、ただ純粋な驚きの表情。俺が最後になって不意に呼び止め明日のことを告げた、そのことを意外に思っている、それだけが表れていた。
 他の感情の一切抜け落ちたような。
 透明な、表情。
 一瞬だけ見蕩れた。
 一瞬。……一瞬。
「……おう、」
 次の瞬間には、ムツはいつもの通りの、常夏の太陽の如きミリオンワットの笑顔を、その特別天然記念物的且つ突然変異的なまでに端整な顔に浮かべていた。
 俺のよく知るムツの笑顔だった。
 あの時のムツの笑った顔を、俺は特に訳もないというのに、未だに時々、思い出す。
 ――特に訳もないのに?
 いや、きっと訳はあったのだろう。ただ今、俺はそれを忘れてしまっているだけだ。
 きっと二度と永遠に思い出せないくらいに、完璧に。
 再び踏切の、音。
「また明日なっ!」

 ムツの上っていった駅の階段を、俺はムツが去ってしばらく経っても、ロータリーに自転車を停めたまま立ち尽くして、見つめていた。


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