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 現在高校三年生の夏……いわゆる受験生の夏ってのを迎えている俺が、一年前・高二の時に使っていた現代文の教科書に、小林秀雄氏の「無常ということ」という評論が載っていて、この文章が結構気に入っていたりするのだが、その一文をここで引用させていただこうと思う。
「確かに空想なぞはしていなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮かび上がった文章をはっきりたどった。余計なことは何一つ考えなかったのである。どのような自然の諸条件に、僕の精神のどのような性質が順応したのだろうか。そんなことはわからない。わからぬばかりではなく、そういう具合いな考え方がすでに一片の洒落にすぎないのかもしれない。僕は、ただある満ち足りた時間があったことを思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっているような時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。そんな気もする。」
 ――この文章以前の部分を要約すると、筆者である小林秀雄氏はある日、「比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついて」いたのだが、その時に突然ふと、「一言芳談抄」の一説が「当時の絵巻物の残欠でも見るようなふうに心に浮かび」、「まるで古びた絵の細勁な描線をたどるように心にしみわたった」というような内容なのだが……俺はあの中学生になって初めて迎えた夏のあの日々のことを思い出す時、この「無常ということ」の一説を同時に思い浮かべる。
 そうだ、国語の教科書繋がりでもう一つ、偉大なる先人の文章を引用させていただこう。今度は高一の時に使っていた国語総合の教科書に載っていた、加藤周一氏の「美しい時間」からの引用だ。
「私はその小径にどのくらいいたのだろうか。時計を見ればおそらく一時間にも足らなかったはずだろう。しかしそれから年月が経ち、当時の前後の事情、その日の、またはその年の、私の心配や希望や日常の行動の記憶は、うすれ、やがて消えていって、一時間足らずの感覚の内容だけが、明瞭に、そのあらゆる細部にわたって、意識の中に残った。あれは何年の何月のことであったか。それはもはや記憶にない。美しい時間は、日付を失った。しかし決してその感覚の質と密度を失ったのではない。」
 ――こちらの引用では、この文章以前に、筆者の加藤周一氏が「太平洋のいくさがはじまったころ」に経験した、「細い径の両側に薄の穂がのびて、秋草が咲いて」おり、「雑木林の上に空が拡がり、青い空の奥に小さな白い雲が動く」「信州の追分の村の外れで、高い空と秋草の径」が「限りなく美しく見えた」という出来事を語られている。
 ……この二つの、捉え方によっては何の関連もなさそうな文章を並べると、きっと俺がこの小説を通して語ろうとしていることが何となくおわかりいただけるのではないかと、俺はそう踏んでいる。もっとも、小林氏や加藤氏のような偉大なる先人とは違って、俺なんか友人の見よう見まねで小説を書いているようなひよっこだから、これを読んでくださった全ての人に百パーセント、俺が言わんとしたことが伝わるだなんて思っていない。そこまでのスキルを、まだ俺は所持していない。
 ていうか、そもそも小説とか評論とか、その他あまねく文学作品ってそういうものだと、俺は思うんだけどな。
 ひとまず、作者が「これはこういう風に読んでくれ」なんて読者に強要できるものではないと、また強要すべきものではないと、そう思う訳だ。確かに、その文学作品を通して作者が伝えたいことっていうのは存在するんだろうし、それを一字一句そのまま読者が感じ取ってくれたら、作者としてそれほど嬉しいことはないのだろう。けれど、作者はそれを読者に強制することはできない。結局のところ、その文学作品を読んで読者が何を思うのかなんてその人それぞれの自由だし、だからこそ、作者が伝えようとしたそのままのことを読者が感じ取ってくれる可能性は宇宙の塵よりも小さい。
 だとしたら、文学作品を手懸ける意味っていうのはどの辺りにあるんだろう――と、俺はこうして自分の過去話を小説として自前の大学ノートに記しながら、時々考える。俺がこうして綴る物語には、確かに俺が伝えようとした「何か」が込められている。けれどそれを読者がありのまま感じてくれる可能性などほぼ皆無なのだとしたら……俺は一体、何のためにこんなことをしているんだろう、ってね。
 俺の思いってやつが伝わらないというのなら、伝わるのはじゃあ過去にあった事実、だろうか? けれど、それだって俺の捉えたままに読者の皆さん方に届いているとは考え難い。だし、俺がこうして小説に綴る俺の「過去」っていうのは、突き詰めて言ってしまえば俺という一人称が色眼鏡で捉えた、かなり客観性に欠けて真実味のない「物語」であり、歴史的に重要な資料となり得ることもないだろう。
 だとすれば、俺はこの小説を書くことで、読者に何を伝えられるんだろうか?
 ――そこで発想を変えてみる。すなわち、俺がこうして小説を書くのは、誰かに何かを伝えるためではない、と。
 要するに俺は……思い出しているだけだ。
 俺の感じ取った過去を小説という形にして書くという、この作業を通して、ただ「思い出しているだけ」。
 小林氏の言葉を借りるのなら、「ただある満ち足りた時間があったこと」を、そして「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっているような時間」を。
 加藤氏の言うような「美しい時間」が、俺の過去にはっきりと存在していたことを――
 俺はただ、思い出しているだけ。
 鏡に向かってぶつぶつと独り言を言うように、ノートのページを文字で真っ黒に埋め尽くすことによって。
 だから、もう原稿用紙換算で百五十枚以上分も書き綴った、あの中学一年生の夏休みの出来事も、何か意味があるのかと言われれば、きっとそんなものはないのだろう。
 これを読んでくださっている、貴方を始めとする読者の方々にとっては。
 これに意味を見出すことができるのは、俺だけだ。
 ミキがいて、メグがいて、そしてムツがいたあの夏のことをこうして延々と書き記して、俺が何をしようとしているのかというと――つまりは、そういうこと。
 あの、何が特別だった訳でもないのに、やけに鮮明に俺の脳内メモリに残された夏の出来事を、思い出すために。
 あるいは……忘れないために。
 そんなだから、貴方が貴方の限られた時間をこの小説なんかのために費やしてくださっていることに、俺が言えることが一つだけあるとすれば、それは「ありがとう」だ。
 俺のこんな、くだらない独り言的昔話に付き合ってくれて、ありがとう。
 ちょっとは面白いですか?
 だったら俺も嬉しいです。
 だって、貴方がこうして読んでくれなければ、俺が勝手に書き綴って、勝手に思い出して、勝手に満足するだけの話になっていたんですからね。
 この小説ともいえないような小説に、俺にとっての価値以外の価値を作ってくれて、見出してくれて、本当にありがとう。
 小説っていうのは、作者が一人で作り上げるものじゃなく、そう、読者という存在があって初めて、きちんと作り上げられる部分もあるんだろうな。

 そんな言い訳みたいなことを述べさせてもらった上で、じゃあ、語らせていただこうか。
 オチのないこの話の、オチってヤツを。


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